Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

全てが奇跡!

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あのねぇ。
つまりは、なに基準やねん!っちゅうことなんですよ。

ど、、、どないしてんいきなり!

ってね。話なんですけど、
いやいや、
普通とか、特別さとかね。
そういう事の話です。

普通も、特別さも、基準あってのはなしやないですか。

止まり木にハリソンフォードがいたら、ラッキーなのかもしれませんけど、
普通のおっさんが止まり木にいたら怪しいやないですか!!!

というわけで、おはようございます。
タクさんです。

いつもながら、訳がわからん話を今日も書いてみたいと思います。

ハリソンさんって75歳(2017年現在)なんですってねー。
ひゃー!ビックリ。

 

基準ってね。自分という中心点でもあったりする訳なんですけど、
この基準って結構ころころ変わったりするんですよね。
なのに、なぜか絶対的な中心点である!みたいな意識を持ってたりして、
これは普通でこれは普通ではなく特別である。
とか思ったりする訳です。

基準とは何かを判断するため、そしてそれをつかむための物差しのようなものでして、その物差しがなければ、何かを何かとして掴み取ることはできませんから
判断には何かしらの基準があるわけです。

掴んだその判断はイメージで作られた物差しで計られてるんですよね。

その物差しはイメージで作られたものです。
なので実体はありません。
でも、すべての判断はこのイメージで作られた物差しによって計られてる訳で、
この物差しなしにはなーんも判断できないんです。

あらゆる判断もそれを計られる物差しも、そしてその基準も、
全てが実体のないイメージ上で作られた幻想のようなものだとしたら、
もう計れるものはどこにもないっちゅうことになります。

なーんにも計れないんだとしたら、
もう、普通であるとか、
特別であるものは存在しなくなるんですねん。

すると全ては最初っから、何かで計ることすらできず、
予測することもできず、
想像すらできないものだったという訳です。

そういうのを奇跡やという訳ですが、
つまり、奇跡というのがデフォルトやったというわけですね。

計れないものは、判断もできず、そして、掴み取ることもできないので、
何かにはなり得ません。
つまりは何にもなさとしかいいようがないわけです。

この何にもなさは奇跡であり、全ては奇跡やったという訳です。

もし、普段の世界が特に奇跡にも見えず、色褪せたものに見えるのするなら、
それは、妙に判断し、掴んでいたからその判断の色付けで、本来の奇跡を色褪せさせているだけであって、それはそのまんまを見てるのではなく、記憶を見とるからなんですねー。

で、自分の記憶や体験や知見を超えることについては、
その物差しで計れないから奇跡と呼んだりしてるにすぎません。

ほんとはぜーんぶ奇跡的なもんなんです。
物差しはイメージですので実体はないんです。
となると、基準というものもほんとはないということになります。
基準がないので、中心点というものもないんです。

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