Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

生命の海と表現の波

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僕らの本質は生命そのものです。
ま、当たり前ですよね。

僕らはみんな生きている
生きているから歌うんだー♪
ってことですのでね。

歌が歌えるのもいきてるからであって、死ぬかもしれん!と心配できるのも生きてるからでございます。

でもその生命そのものからそっぽ向いていると、
いつしか、生命の感覚から離れていっちゃいます。

ホントは生命そのものなので、離れることはできるはずもないんですが、
感覚として離れちゃってるような錯覚を抱くんですよね。

そうすると、
生きがいを欲しがるんです。

生きてる感覚が欲しくなるんですね。
それが、天職さがしだったり自分探しの旅なんていうことになったりするのかも知れません。

 

天職といったものが個々人にちゃーんと設定されてるのか?というのは知りませんけど、その仕事があっとるのかどうかについては、
休みの日でも、お!これは仕事に活かせそうやな!みたいなアイデアが湧いてくるかどうか?
もっというと、休みの日かどうかの境界が曖昧であればあるほど、遊びに近い感じであればあるほどそれはあっとる仕事やと言えるのかも知れませんね。

自分探しの旅っていうのも、知らず知らずのうちに身につけていた習慣や考えを改めさせるっていう意味では、全く別の文化圏に飛び込んでみるってのは良いのかも知れませんねー。
たまにはみんなでガバディをしてみるのもアリかな?笑

ま、とにかく、何かしらの解放感っていうのは、実は新しい文化に触れたから味わってるんじゃなくて、いままで自分で握りしめていたある種の観念を手放したから感じてたりするんですよね。

長年望んでいたことが叶った時や、欲しいものが手に入った時もそうなんですけど、それは望みや欲しいものに対する欲求が無くなったという解放感だったりするんです。

で、望んでいた解放感にずっとリラックスしてりゃ良いんですけど、それだと方向を失った感じになってきて、また新しい目標が必要になってきたりしてね。

もちろん、面白く目標を目指して遊んでみるのも全然アリですし、それはもうゲームのハイスコアを叩きだそうとして夢中で遊ぶのと同様にやってりゃ良いんですけど、
方向性を見極めようとしたりしても、じつは方向っていうのはありませんのでね。

海の表面に起こる波のようなものですので、上がったり下がったりしてるわけです。
上がるのがよくて下がるのが悪いってわけじゃなく、単に変化が常に起こってるんですよね。
その変化に無理くり良し悪しをつけようとすると、波の山が大きく盛り上がってるのがよくて、下がってくるのは調子が悪い。
と判断してみたところで、それは単にそういうことにしましょってだけの話ですので。

横断歩道の白いところだけ踏んで渡ろうぜ!
踏み外したらサメに食べられちゃう!ってことにしようぜ!
って心の中で決めて、不自然な歩き方になってるのと同じことなんですよねん。

海に波が起こるのは、海があるからであり、
波の正体は海そのものなわけです。
そしてあらゆる波は海から離れて存在することはできなければ、
その海自体は分離しているわけじゃなくひとつながりです。

それと同様に、
僕らが笑うのも歌うのも生きているからであり、
おかーちゃんの中に宿ったのも、お腹から出てきたのも、
命があるからそうできたわけでして、おかーちゃんの中に宿る前にも
ちゃんと命はあったわけです。

いろんな表現として現れては変化を続けていますが、
そんな僕らは命そのものであることには変わりはなく、
命を離れて存在することもできなければ、
その命は分離しているわけじゃなくひとつながりなんです。

なのでねー。生きてる感覚が欲しいのなら、新たな波を探すよりは、
波に意識を向けるのをやめてみることです。

その波というのは、心や思考や習慣、そして記憶や感情やルールみたいなもんですかね。
意識を向けるのをやめても、ちゃーんと機能してくれますので大丈夫なんです。

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