Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「それ」はあなたから一切離れることなく常に今、ここにある。

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んがーっ!
最近ちょっと疲れ気味のタクさんでございます!
おはようございます。
皆さんいかがお過ごしでしょうか?

今日は定番の
「それ」はあなたから一切離れることなく、
常に、今、ここにありますんやでーっていう話を書いてみよかな
っておもいます。

 

が、そのまえに、、、、。

例えばね。
誰もいない砂漠の真ん中にちっちゃな小石があるとします。

その場合、この小石は小石ですらないですよねぇ?

この小石が小石になるのは、この誰もいない砂漠に誰かが通りかかり、
「あ、小石がある。」と思った時点で小石になるわけですよね?

さて、じゃあこの小石は、どこに在るんでしょうか?

じつは小石としてあるのは、誰かの頭の中のイメージの中にしかなくて、
ほんとのところは境界のない全体が全体としてあるだけやないでしょうか?

空は、どこからが空なんでしょうねぇ?

地上と空とで分けるなら、僕らは下を向いていても空を見ていることになるんでしょうかねぇ?
どこまでが空なんでしょうねぇ?
宇宙空間まで飛び出しちゃうと、空の中に星があることになり、地上と空の区別も意味がなくなっちゃいますね。

僕らが見上げる夜空に浮かぶ星は、空の一部ですが、自分が立ってるこの地上だって空の一部ですしねぇ。

海はどこからが海なんでしょう??
海岸ではザブンザブンと波が寄せては返しております。

それはもう休みなくそうなっておりますので、ここが境界なんだとすると、常に境界は変わっております。

境界線があると思うと、せわしなく境界が移り変わってるようにみえますが、
本当は境界がせわしなく変わっているように見えてるのは、境界があるという思考が作り出した幻想で、もともと境界すらなく、別にせわしくもないんですよね。

海にむかって、
「あんたー。忙しいなぁ。コロコロ境界線変えて!」

って言ってみても、多分、シーンとしたまま無視されるでしょうねぇ。

これって、だれかに無視されたわけじゃなく、そこには誰いてなくて、単に観念がある種の音として、起こっただけなわけですね。

はてさて、、、。
やっと本日の本題でございやす。

「それ」はどんな思考にもどんな感情にも影響されず、
そして、一切あなたからも離れたことはありません。
いま、ここに常にあります。

ということについてなんですけどね。

例えば砂漠の上にポツンとある小石。

この小石が小石であるとされるのは、
小石がある!と思っている間だけその起こっているイメージの中だけで、小石となるわけですよねぇ?

そのイメージが消えていくと、小石もイメージの中からは消えていくわけです。

そして、小石は小石ですらなくなります。

でも、最初から小石は小石ですらなく、何かから分離したものですらなく、
全体としてすでにあったわけです。

小石とイメージされている間だけ、イメージの中だけに小石と見なされてはいますが、そんなイメージが起こる前も、単に全体としてありましたし、イメージされている間も、なんの影響も受けず、分類もされず、単にそこに全体としてあるわけですよね。

どんなイメージをされようが、どういう風に呼ぶ事にされようが、
影響されるはずもなく、呼ばれた時点で分離されるわけでもなく、
何も変わらず、影響を受けず、分離もなく全体としてあるわけですよね。

海だって、空だって、地上だって、どう呼ばれようが、
どう分類されようが、なんら変わりなく、分離もなく
全体としてあるわけです。

海だー!と呼ばれていようが、
ばかやろー!と若者が叫ぼうが、

海ですらない全体としてあるわけです。
影響を受けるはずもなくね。

分類されないから、言葉でも表現不可能な「それ」は
当然のことながらイメージの影響は受けず、
どう分類されようが変わりなく、
全体として、あるわけです。

分離をされない全体なので、こっちもあっちもありません。
中心点すらありません。

だから、ここにあります。

そして、全体ですので、僕もあなたも含みます。

空と地上には、じつは分離がないのと同様に、
自分も居なけりゃあなたも居ません。

そして、過去と未来といった分類すらありません。

だから、

「それ」はどんな思考にもどんな感情にも影響されず、
そして、一切あなたからも離れたことはありません。
いま、ここに常にある!っちゅうわけなんです。

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