Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

本来の自分の価値を認めるとワタシはいないにたどり着く

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だいたいやねぇー。自分っていうのは思ってるよりも数千倍の価値があるもんですのでね。
そうやと思えないとしたら、自分の価値を過小評価してると思ってもいいと思うんですよ。

特に日本では海外より自分を過小評価してる人が多いのかもしれませんね。
人に迷惑をかけるな!みたいな観念がうごめいてたりしますので、
人に迷惑をかけまいとすることにがんじがらめになっちゃって行き過ぎちゃったりしてね。

そっちの方向だと、逆に自分が迷惑だと感じたら人にも冷たくなっちゃったりしてね。
なんかぎくしゃくもしちゃったりして。

努力と根性!みたいなチキンレースにハマったりしてね。
もちろん、楽しくやるのには全然良いんですけど。

でも、自分の本来の価値を取り戻せば取り戻すほど、人にも優しくなれるんやと思うんですねー。
依存することもなくなっていきますので、フェアな関係性も築けて行きますし。
人だけじゃなく、お金とか社会とかともね、妙な依存なくまっさらな感じで付き合えるようになってくるってなもんです。

 

でね。
自分の本来の価値を見るっていうのはねー。言い換えると、変に自分にはめ込んでる観念に気づいていくってことになるんですよね。

自分とはこうだ。
とか、そういう観念です。

この観念のウソさがね、見抜けてくると、
あれれ?今までこの観念のことを自分やと思っとったわ!
てなことにも気づいてくるわけです。

この辺が極まってきますと、
自分は社長でも平社員でもないですし、
うだつの上がらない窓際社員でもないですし、
さらには、
自分は日本人ですらないですし、
自分は男でも女でもないですし、

うほっ!
わしゃ、人間ですらないやんけ!

身体でもなく、心でもなく、、、、。
そして、時間という型にさえ、ハマるものでもなく、、、。

と、
どんどん作られた檻から解き放たれていくわけです。

この解き放たれた自由な風を帯びたままでいられるようになってきます。

すると、自分は自分でもないし、自分ではないものでもない。

みたいな感じでね。
私はいない!といった観念へのコダワリも不必要になってきます。

だからね。
自分は日本人でもなけりゃ、日本人じゃない!ということもない。

みたいなね。
一見矛盾するようなことも、気にならなくなるわけですよねー。

矛盾も何かしらの観念を採用しなきゃいけない!とする衝動からくるものでしかなかったわけですね。

つまり、何かしらの型にはめ込まなくても良かったんやん!
ってことに気づいていくわけです。

いままで、自分だけじゃなく、あらゆるものを型にはめこんで、
この型の方しか見とらんかったんやん!
ってね、
だれでもない者が、それを知るわけです。(この辺は言葉の限界ですね)

この辺になってくると、もう比較は全く無意味な幻想になってきます。
比較っていうのも、勝手に作った型を自分の中で勝手に比べるようなものですのでね。

そこに深刻になるのって、もうネタが割れた以上は、深刻さが発揮されないんですよね。
ま、そうは言ってもクセは結構しつこく残ってるもんですけどね。

ま、そうやって極まると、自分だとしていたものの全てが観念でしか無いことが明らかになってきます。
そして、観念を掴んだ世界への執着の無意味さと、そうやって作られた世界のウソさも明らかになるわけですね。

そんな中に、リラックスしつつ、自由の風を帯びながら、思いっきり観念の自分をやってみるのもまた一興なんです。
自由の風とは、一切の観念を放置した感じの雰囲気です。

観念なんやん!ってね。わかったことに固執する必要すらなくなっちゃいますのでね。

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