Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思いに原因があるんやないんですよ。

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やっぱり、感情を揺さぶられるような思いや感情があったりしたら、そこに辛さの原因があるように感じたりすると思うんです。
すると、その思いを分析したり反芻したり、、、。
さらには思いを解消するための足りないパーツを探そうとしてみたりねー。

多分、非二元の話も、それが理解できたら、
先生とかが言ってる通り
「全ては完璧」を実感できて、足りないが解消できるんとちゃうやろか?

ってねー。
そんな思いで非二元への探求が深まっていく。。。

そんな感じになってる方もおられるかもですねー。

でも、それやと、いつまでも探求が終わらんやんけ!
ってなことになったりするかもしれません。

 

よくね。
降参!するんですよん

みたいな表現もあったりするやないですか?

これって、「あるがまま」を「あるがまま」にしておく。
という事と同じ事なんです。

アホか!
んなわけにいくかいっ!
って思考は、いかにも正当性があるような考えを引っ張り出してくるかもしれません。

でも、ちょっとここは落ち着いて、、、。

思考のおしゃべりはおしゃべりとして置いておいてみるんです。

放棄するわけじゃありません。
単に置いておくだけです。
思考にはいつでも乗れますので、乗っかるのに焦る必要は無いですからねー。

どんな思考が現れようと、全然オッケーです。
そして、それに乗っかってる間だけ、物語が展開します。
そのストーリーに間違いも正解もありません。
間違いや正解があるというのも、物語の中の筋書きですのでねん。

実はこの思いの筋書きの中に苦の原因があるわけではございません。

思いって実は人畜無害なもんでございます。

単なるチラシ広告の能書きと似たようなもんなんです。
もっと厳密に言うと、アラビア文字で書かれた広告みたいなもんです。
読めない人からしたら、無意味なニョロニョロとした文字っぽいものになりますねー。
海外の人から見たらひらがなも漢字もそんな風に見えるんでしょうね。

おっと、話が逸れました。
つまり、思考には言葉が使われていて、
その言葉にはなんらかの意味づけがされていて、
その意味づけがさらなる意味づけを生み出して〜。。。
ってやってますんでね。

一旦言葉を置いておく感じで、まるで言葉を知らない赤ちゃんのように、
その思考の元にある感覚だけにしてみるんです。

泣けてくるような感覚だったらそれも悪くありません。
笑うのが悪くないのと同様に泣くことも悪いことじゃありませんので。

赤ちゃんは遠慮なく泣いてますのでね。
みんな最初は遠慮なく泣いてたわけです。

その感覚に良し悪しはないわけです。

するとどうでしょう?
あるのはその起こってることだけ。それだけが残ります。
起こってるエネルギーをその空間。
そして、その空間は起こってる事と同じもので、単に空間がエネルギーを表現している。
それでザッツオール!
見ている自分というのすらその空間内で創造されたイメージであるわけです。

良し悪しもなく、イノチであるエネルギーが常に新鮮に表現しておるわけです。

この辺がもう言葉の限界になりますねー。

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