Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

何者でもないというのは、すなわち神であるということやねん。

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子供の頃、特についてない日がありましてねー。
「どんな時も神様が見てるのよ」
とか先生に教えてもらったもんですから、

くっそー!
おい!この約立たずの神!
ちょっと出てこいアホ!!!

おい!
出てこれへんのか!
どーなっとるんや!これは!!!
ええ加減せえよ!

って、空に向かってツバを吐いてました。

天にツバを吐いてもちゃんと避けられるんじゃ!ボケ!!!

とか言いながら、
ペッ!!!っとやったあと、
サササーと避けながら、

みてみい!
ザマーミロ
ってな感じでね。

さて、
お早うございます。
タクさんです。

我ながらアホな子供時代ですねぇ。
よっぽどやなことが続いてホントに怒っていたことは覚えているんですけど、
じゃあ、なにがあったんや?ってことはすっかり忘れてしまっています。

だいたいは、起こったことよりも、
そこで感じた感覚をどうにかしようとしとっただけだったのかもしれませんね。
皆さんも、そんなもんじゃないでしょうか?
だとすれば、起こってる具体的なことって、結構どうでもいいことなのかもしれませんねぇ。

 

ま、それは良いとしまして、

僕らは、何者かになろうとする必要はなく、
そもそも何者でもないわけなんですよね。

ですので、僕らは何者かになれるわけでもないんです。
で、そのことを受け入れられたときに、
あ、最初から何者でもなかった!みたいなことが明らかになってくるんですけどね。

それって、何者にもなれない価値がないもの。
という意味とは全然違うんですよね。

それどころか、
何者でもないというのは、全てに偏在する神であるということなんです。

だから、残念がる必要はなくて、
それよりは、小さくまとまらなくてもエエんやん!
ってことなんですよねー。

まあ、この神という表現は、全てであり、在るそのものであるという意味の神ですけど。

もし、神が何者かであるならば、その何者という観念に押し込まれます。

貧乏担当の貧乏神とか、トイレの神様とかね。

トイレ限定って、全然弱いやん!
ってことになってしまうわけです。

そんな弱い観念上の神ではなく、
もうね。
全てなんです。

あなたは悟ることはできないですし、
何者かになることもないわけです。

もし、何者かになってると思ってるなら、それは幻想でございます。

ってね。
一見、夢も希望もないように聞こえますけど、
全然そういうことやないんです。

あなたは、悟りとかいう小さな器に収まるようなもんやないですし、
何者かになる!みたいな限定されたもんでもありません。

それをも含んだ全てですので、小さくまとまらんでもええで!

というエールやったんです。

許しとは、自分は何者かなんていう器に収まるような小さなもんやないでー!
っていうことを認めてあげることやったんですね。

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