Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

足りない自分というものが存在しているっていう幻想

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不安ちゅうもんは、自分の中に何かが足りないと思とるところから出てきてますんでね。
自分が強化されたら埋められるんとちゃうやろか?
みたいな誤解があるわけです。
ほんとは、その足りない自分というものが存在しているっちゅうのが幻想だったというわけでしてね。

足りない自分がいるという大前提があって初めて、
なにかで埋めようとするわけです。
で、いくら埋められた!と思ったとしても、何かしらの器としての自分がいるという大前提がある限りはいくらでも足りないが出てくるわけでして終わらないんですよね。

そうなると、自我としての私をどうにか消し去ることができたなら、
こういった不安からも解消された自分になれるんだ。

ってね。
思っちゃったりするわけなんですよね。

一時的にそういうことに成功する場合もあったりしてね。
そうなると、ずっとあの状態を維持できるはず!
みたいな仮説が出来上がったりもするわけです。

でも、これも、ある種の仮説にどうしても乗っかっちゃってることになっちゃうわけでしてねぇー。

インドの偉いラマナマハリシという人は、
スピリチュアルの教えについてどう思いますか?
と尋ねられた時に、

「棘を抜いて、新たな棘を刺すようなもんだね。」

てなことを言わはったらしいんですけど、
まさに、そんな感じでしてね。

 

自我を超越するぜ!みたいな考え方も、
結局、自我ありきでしか出てこない考え方でもあり、
自我というのはある種の設定された概念ですのでね。
その概念を採用している中では、どんな新しい物語を採用してみたところで、
物語という概念を生きるという誤解からは全然抜けられなかったりもするわけでしてね。

じゃあ、なんとかこの自我、私がいなくなれば、、、、。
とおもったりもするもんなんですけど、
私がいなくなるためには、私がいなきゃならない。
みたいなジレンマがありましてねー。

私を消そうとすればするほど、私という概念の輪郭がはっきりして来ちゃったりする。
みたいな事にもなっちゃったりして、ややこしいわけですね。

ホントは私がいないわけでもなくてですね。
私というものを構成している身体だって、そういう現れで出て来とるわけでして、
それを認識する能力だってなくなったりはしないわけです。

ただ、それは足りたり足りなくなったりするような性質のものじゃなく、
単にひとつながりの現象の一部分を掴んでるだけだというわけでございます。

部分を掴み、それを私と同一化してただけでしてねー。
その同一化の誤解が明らかになるわけです。

じゃあ、それが明らかになると不安からも解放されますのん?
もう、不安が出てくることはなくなりますのん?
って言いますとね、

不安がなくなるというわけじゃないんです。

つまり、不安が出てくることも全然アリじゃん!
ってなるわけです。

その不安が一切ない波のない静かな状態を保つ意味合いを失うわけです。

雨の日もあれば晴れの日もある。

これは何かを慰める言葉じゃなく、単に当たり前の描写であって、
人の本能として不安が出てくるのも当然じゃん。ってなるわけなんですよね。

実は嫌だったのは不安からくる妙な心の重さだったんでは?と気づくわけです。
そして、その重さは不安があるのが許されないとして、なんとか無くそうとするけど無くならない。
この抵抗感からくる摩擦のような現象であって、
不安があるだけでは、なんら重さはなかった事に気付いたりするんですよねん。

なので、不安はあってもええやん。となるわけです。
深刻さはどこにもなかったので、不安があっても良いって事になるんですよねー。

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