電車内での携帯電話はマナー違反ってなことになってますが、
なんで普通の会話はオッケーで携帯電話はあかんねん??
なんて思ったりしてたわけなんですけど、
ペースメーカーの誤作動とか色々と理由があるっぽいんですが、
一つの仮説として、普通の会話なら良いけど、通話の場合は片方の人の話しかわからないから、なんかモヤモヤしてイラつくかららしいでっせ。
みたいな説もあるそうです。
ということは、うるさいのは、音自体じゃなくて、モヤモヤしている自分の頭の中がやかましかったんですね。
おはよーございます。
タクさんです。
ま、にしても、都内の電車のアナウンスは、ちょっとしゃべりすぎですよね。
次は、霞ヶ関、霞ヶ関です。(大事なことだから2度いいました)
何々はお乗り換えです。
ただいま、東京メトロでは、何とか週間を実施中です。
ネクスト ストップ イーズ カスミガセキー
電車がカーブをどうのこうの、、、揺れるからあーだこーだ。
まもなく、霞ヶ関です。出口は右側です。
アライビンクナンチャラー。ナンチャラーカンチャラー。
電車とホームの間に、どうのこうの、、、。
、、、。
ちょ、お前、ずっと喋ってるやんけ!!
って突っ込みたくなります。
騒がしさや喧騒、そして、時間までも。
すべては判断の中にあるんですよね。
この判断されたイメージの中で、やいのやいのってゆーとるんです。
そこから一歩もどこかに行く事なく、何かを身につけることもなく、何かをすることもなく、ただ判断から、単に離れると、喧騒だった目の前のものがそのまんま、時間のない、分かたれることもない、静寂そのものだと明らかになります。
そこには自分という存在さえいてないんです。
つまり空(くう)も色(しき)もないわけで、
空(くう)の中に色(しき)があるわけでもなく、
色(しき)の裏側に空(くう)があるわけでもないわけでしてねー。
なもんで、静寂にあらねばならないこともなく、
怒ったり悲しんだりしちゃダメってことでもないわけでして、
そういうのがあるのが許せんという心がある間は、
思い通りにならないという苦にさいなまされることもあったりするわけですが、
それもそれで良いわけですので、ダメってことでもないわけです。
じゃあ、どこにもつかみどころがないやんけ!
って思われるかもしれませんが、そうなんです。
つかみどころなんて、実はどこにもなかったんです。
つまり、掴まなくても良かったっていう話なんですよねん。
いま、ここにいるその中に常に静寂があるわけです。
喧騒の中に静寂がすでにあるわけなんですねー。
はい、これは喧騒ですね!
認定ー!!!
ってな判断が加わった時点で、そうじゃない事にしとっただけやったりしてね。
ま、だからと言って判断をやめるぞ!って頑張っても意味はなくてですね。
それよりは、
あー、そういう判断も普通に起こってるだけのことやったんやねー。
と見てあげる事によって、
判断の中に必ずしも入り込まなきゃならないわけではない。ってことに気づくんですよね。
へ、ほっといても良いのん!
って気づくんです。
で、ワロテまうわけなんです。
絶対に無視したらあかんやつやと思ってたのに、普通にほっといてよかったんやん。
ほっておくことは出来ないって、勝手な決めつけがあっただけやん!
ってねー。
気づいちゃうとワロてまうんですよねー。
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