Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

正負の法則から抜け出せなーい。

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なーんもない中で何かに光をあてると、その光のぶんだけ影ができますねん。

光が強ければ、強いほど、影も濃くなるっちゅうわけですねー。
正を作るともれなく負もついてくる!
っちゅうわけです。
こういうのを「正負の法則」なんて言われてたりしますよね。

なんもないひと繋がりの絶対性の中でなかで、
分離という観念も同じようなもんで、その観念に対しての執着が強けりゃ強いほどその影も濃くなる。
つまり、分離の感覚が強くなるっちゅうわけですな。

また、
良いことばかりに光をあてると、悪いことという影も濃くなります。

つまり、良いことだけに包まれたーいってなると、やな事がすんごく気になったりするっちゅうわけですね。

逆に不安は嫌だーとそっちばっかり気にすると、新しいことにチャレンジしづらくなったり、
人の評価を気にしすぎると何も話せなくなったりってねー。

そういう風になったりするもんなんです。
分離させて片方だけつかむことって不可能なんですよねー。
だって、元々は一個ですからねん。

せやから、完璧を求めれば求めるほど、不完全さが色濃くなったりする訳でございます。

なので、分離の中で完璧を目指そうとしても、
延々とぐるぐるしちゃうっちゅうわけです。

このぐるぐるに必死になればなるほどこだわりも色濃くなってきて、
こだわりが強いほど不自由になってくるという感じなんですよねー。

でもって、
掴み取ろうとすればするほど、得られるものが少なくなるっちゅうね。
そんな感じなわけです。

 

でね。
実際には、執着が強いから何かを失ってるのか?
と言いますと、実はなーんにも失ってなくて、
単にイメージの中だけで掴んだ!つもりになってるだけだったりもするんですよねー。

空気を掴もうとしてる感じに似てるかもしれません。

必死に空気中の空気を掴もうとするわけですが、
必死になればなるほど疲れる。。。
って感じですね。

空気を掴み損なったとしても、空気は逃げる訳ではないのでね。

空気を失った事があるのか?というと最初からもう全部あるわけなんです。

十分に満ちている空気の中で、この程度の空気だと将来心配だ!
もっとかき集めておかなきゃならん!って思ってたりするわけです。

足りない!って思っとるんですよねん。
足りないなんてことはあるわけないんですが、
その中で足りないというイメージの中で、足りない感覚を感じとるんですね。

もーう。
なんでそんな一人相撲をせなあかんのよ。
最初っからしっかり人間っちゅうもんを作っといてよ!
と文句言いたくもなるですが、
ま、しゃあないんですよ。

人は高度なフィクションを作り上げる事ができるという能力があらかじめ備わっておるんです。
本能的なもんですので、自然現象とも言えます。

このフィクションがリアリティを帯びて、そのリアリティの中に捉えられとっただけというわけでございます。

足りないという思いは分離の観念ゆえに起っとるわけでして、
この観念は作り上げられたフィクションだったわけでございましてね。
このフィクションをホンマやで!と信じているこの信念が、フィクションを観念にしておるわけですねー。

このリアリティが単なるエネルギー的なイメージでしかなかったと見抜かれますと、

足りないもんなんてあらへんのんやんか。もぅ〜。。。
ってなるんです。

まるで夢から覚める感じと言われてたりするのは、
この「もぅ〜。」って感じなんですよねん。

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