へいへいへーい!
というわけで、お早うございます。
タクさんです。
どうあろうと、「それそのもの」はなんの影響も受けません。
映画のスクリーンに何を移そうが、スクリーンがその色に染まってしまうことはない。
まあ、それはよう分かった。
でもそれを聞いたところでどうすりゃええのん?
どうあがいても、映像は見えてしまいますし、引き込まれてしまいますやん。
ってねー。
うんうん。そりゃそうだ。
というわけで、
今日はそんなどうすりゃええのん!についてのお話を書いてみたいと思いまする。
スクリーンの話と同様ですけど、
違う形に例えてみるとしますとね。
目の前の白い玉があるとするじゃないですか。
その玉を
赤いサングラスをかけて見たら赤く見えますね。
でもって、青いサングラスをかけて見たら青く見える。
とまあ、そういうことでございまして、
どう見えてようが、白い玉には違いがないよね。
っていう至極当たり前のことなんですよね。
でもって、
どんなサングラスをかけても別に良いよね。
というのがホントのところです。
でも、サングラスをかけてることに気づかずに、
あー、、、なぜこんなに世界は青いんだー!!!
って思ってはる人がいたとしたら
いやいや、あんさん青いサングラスかけてまっせ。
ってだけでしてね。
なんだよサングラスって、
かけたつもりもないですし、
ここんとこずっと青いんですけど!
そりゃ、たまには黄色い時もありますが、、、。
とサングラスをかけてる事自体に無意識になっちゃってたりして。
で、このサングラスは、日によって色が変わったりするみたいなんですね。
色も濃くなったり薄くなったり。
あまりに真っ黒なサングラスをかけてしまっていて、
もう前がよく見えないよ。。。
てなことになってるのなら、
色を薄くしてあげるのも良いと思うんです。
癒しとか悟りの修行とか、
そういうのも、そういったことと似てるのかもしれません。
でもサングラスをいくら透明に近づけようと、この色は天気のようなもんで
色々と色づきますのでね。
そこに終わりはないわけです。
あまりに黒い時には薄くしたらええねんで。
ってことには役立つんですけどね。
でもサングラスの色については別に問題ではなくて、
景色が青だろうが赤だろうが別にオッケーなわけなんですよね。
単にそういうサングラスの色なんやなってことですし
でも、サングラスをかけてることを認識してないとその色は時に問題になったりするわけです。
じゃ、どうやったらサングラスをしとると認識できるのか?といいますと、
やっぱり外してみないことには、、、
っておもっちゃいますよねー。
もちろん、ホントにサングラスやったら外すのは簡単なんですけどね。
実はこのサングラスって外せないんですよ。
なんでなん?と言いますとねー。
そのサングラス自体が自分だからなんです。
ま、観念上で、ということなんですけどね。
つまりね。
自分が自分を脱ぎ捨てるってことは出来んわけですよね。
「私はいない」
という言葉を聞いて、私がいないを実感できている自分になろうとするのは
無理ゲーなんです。
でも、やっぱりワタシはいないわけなんですよねー。
どうゆうこと?
って思いますよね。
それはね。
僕らが、ワタシだとしている感覚ってありますよね。
そこにはいろんなワタシがいると思うんですよ。
怒ってる私に、笑ってる私。
イジワルな私に優しい私。
いろんな私があると思うんですよね。
でも、無いのはこの私だけでございまして。
中心の行為者はいてないんですよねー。
中心の行為者の私はいるように感じていて、
掴もうとすると掴めないわけです。
なぜなら、あるのは、
怒ってる。笑ってる。イジワル。優しい。
だけだからですね。
そして、
そうして現れているのは、波のような動きでしてね。
サングラスのように取ったり付けたりするようなものでもないわけですねー。
このカラクリの見抜きが起こった時にはじめて、
サングラスを通さない、なんにもなさであるそれそのものが姿を表します。
この見抜きは、
何者かを選んで掴んでおかないと自分が成り立たない。
と思っていた誤解への気づきでもあります。
元々何者でもなかったわけなんですね。
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