Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

それは〜、まるで〜、蜃気楼〜。

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この前ね。
朝の歌舞伎町を歩いてたんですけどね。
あ、
べつにそういうお店に朝までいたんじゃなくてですね。
健康診断だったんです。
診断所が歌舞伎町にあるもんですから、
朝から歌舞伎町を歩いてたんです。

そうすっと夜のお店の看板がいっぱいあるわけなんですけど、
数年前はケバいおねーさんの写真がいっぱいだったんですけど、ここ数年くらいからホストの看板が目立つようになってきましたねー。
歌舞伎町は夜のおっさんの街から女性がホスト遊びをする街に変わった!ってな感じなんでしょうかねー。

 

と、いうわけで
お早うございます。
タクさんです。

信じたことが、観念となり、観念に従って生きるようになり、
さらに観念を作り出す
いつしかこの観念が大きくなっていくとそれに従わなきゃならないと言った思いも強くなり、それが脅迫観念となっていく。
みんな分離感といった分裂症を患っているようなもんですが、それがある一定のラインを超えたら精神的な病と診断されるだけであって、みんな観念というものを患ってたりするんですよねん。

何かを信じたらあかんのかい!
観念を持ったらあかんのかい!
っていうことを言ってるんじゃないんですけどね。

そんなん全然楽しくやったらええと思うんです。

何を信じても良いですしどんな観念を持つのも自由ですしね。

ただ、その信じてること、観念をが正しいとか間違ってるっていうことはありませんよね。
っていうことなんです。

でもって、どんな観念でも何かしらの意味があるっていうわけでもないよねー。
ってはなしなんです。

意味がないとか正しいとか間違いといった判断はない。
私はいない。
とかねー。
そういうのも、自我というまな板の上に持ってきてしまっては、
それも単なる観念になってしまいます。

非二元の話を聞いたり
何かしらの体験をしたとしても、
それを観念上に持ってきて、意味をつけちゃったら、
本来は意味がないものへの意味づけをすることになりますので
もうすでに非二元じゃなく二元になってしまってるんですよねー。

そういう意味ではあらゆる言葉にされた表現も、
それを言葉のまま受け取ってしまうと、全然違う事になってしまってるんですけどね。
このブログも含めてねー。

なので、「指を見るな月をみよ」ってな感じで言われてたりするわけですが、
言葉の中に真実があるわけじゃなく、単なる道しるべ、地図にすぎないわけなんですよね。

ま、表現してることは、なんら大げさなことじゃなく、
シンプル中のシンプルでして、

なーんにもない中で、何かを掴み取り、何かを信じるから観念となり、
いつしか観念の虜になっちゃってるとしたら、重たく感じちゃうよねぇ。

ま、それでも全然良いんですけど、
観念は実体があるものじゃなくて、単にそうみなしてるだけなんですよん。
なので蜃気楼のようなもんですよねー。
って話なんですよね。

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