Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

因果は錯覚

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因果のルールってねー。
要は錯覚のようなもんなんですよね。

なので、今のこの状況の原因は自分にあるのじゃなかろうか?
何が悪かったのか?

とかねー。

そんなん無意味ですので考えなくても良いんですよね。

罪悪感ってのもね、起こるときは起こりますけど、気にすることって無いんです。
そりゃね、誰かに迷惑かけちゃったってのならちゃんと謝るとかそういうのは当たり前の話として、気にすることはないんです。

頭の中のおしゃべりでは常に、
ああすればこうなる。
こうなればああなる。

みたいなシミュレーションが大好きだったりするんですけどねー。

それもイメージでしかありませんのでね。

でもねー。そういう思いが起こってくるんですー。
って思うかもしれませんけどね。

そういう思考が起こるのは当たり前ですからね。

それが思考って言うもんですから。
だからそういった思考が湧いてくるのは全然オッケーなんです。

ここで、そういった思考を締め出さなければならない!
ということじゃないんです。

思考は起こりますが、そこにフォーカスされている間だけ、
その思考は居座ります。

そういったシステムを見てみることによって、
思考ちゃんは、居座るチカラを失います。

見られることによってリアリティが剥がれ落ちるんですよね。

なんや!見ることが出来るんやん。
ってことは対象やん!
じゃあ自分や無いやん!

てなもんでね。

ありゃ、見られた?
ってことで、
居座る意義を失うんですよね。

ホントのところは、対象でもなくそれがただ起こっておっただけでね~。
その後もあらゆることが、起こっては消えていくわけなんです。

たまーに居座ることもあるかもしれません。

それもまたオツなものとしてね。
味わってあげるのもいいと思います。

ただ、その思考は単なるイメージであって、それ以上でもそれ以下でもありませんのでね。
それがなにか重大なパワーを持ってるわけでももちろんありません。

なのでね。
まだ思考が起こってくる。
とかいったことに煩うこともないんですよねん。

なーんもないなかで、仮想の中心点を設けてるときだけ、
その中心点と、そこから離れた別の何処か?といった仮定の設定が生まれます。

そういうときは落ち着いてー、
「その中心点ってなんやねん!」
って突っ込んであげて下さい。

身体とか自分とかそんな思いが出てくるかもしれませんが、
「どっこにあるねんっ!」
って突っ込んであげたら良いと思います。

突っ込むのも自分なら、突っ込まれるのも自分。
突っ込まれて言い訳を考えるのも自分っていうねー。

まさに一人相撲をやっとることに笑えてくるかもしれませんよ。

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