Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

大丈夫。ぜ~んぶ許されてるよ。 ってねー。

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大丈夫ですよん。
最初っからぜ~んぶ許されてますんでね。

てね。

もし言われたとしても、
どうしても許されてる感じがしない!
ってねー。
思うこともあると思うんです。

でも、
もしそれがホントなら、、、

ってね。

許されてるってことを確かめてみようとしたり、
その許されてるってことを探してみようとしたりね。

どうやったら、許されてるってことを経験できるんだろう?
ってね、探し回ったりしてね。

そんな探究心も起こるかもしれません。

はたまた、
「誰が許してるねん!」
「どこの誰やねん?」
って思うかもしれませんね。

そう。
確かに、
「全部許しまっせー!」
って、ゆってる誰かが、どこかにいてるわけじゃありません。

ちょっ!!!
それじゃあ、許されてるって言えないじゃぁないですか!

ってねー。
思うかもしれませんけど、

なんていうか、
ホントは、許すも許されるもなくてですね、

許されてるというよりかは、
単に観念としての「許さん!」ってのがあるだけなんですよね。

こんなのは許されない。って自分で決めてるだけなんです。

ということは、許すとか許さないとかの判断基準も観念としてあるというわけです。

自分はもっとちゃんとしておかなきゃならん。
「ちゃんとしておくべき」
みたいなね。

そんな観念もあるというわけなんです。

そんなわけで、嫌なところがあるっていう自分を感じたりした時に
落ち込んだりするわけなんです。

でもねー。
ほんと大丈夫なんですよね。

〜であるべき。

ってのは、ホント幻想ですのでね。

でもって、そういった働きってのは、自我ちゃんのクセから来る動きですからね。

でね、そういったクセって絡まり方とか複雑さの違いはあったりしますけど、
クセとしては一緒のようなもんなんです。

み~んな一緒です。

外に吹く風に、春一番とか木枯らしとかいろんな名前はありますけど、
風は風です。

それとおんなじ感じで、自我ちゃんの動きってのもクセの根っこは同じなんですよね。

隣の芝は青く見えるかも知れませんけど、一緒なんです。

すごく人格が高いように見える人も、
その辺の酔っ払いも、
気弱なくせに口だけ偉そうなあのハゲも、
人に優しい素敵なあの人も、

起こってる自我ちゃんの質としては一緒なんです。
えらい複雑に絡まってるような感じになってる人もいるかも知れませんけど、
元の質としては同じなんですよね。

なので、どうしたら許されるのか?と探し回るよりは、
許してないっていう観念を探してみるほうが良いかもしれません。

許す誰かがいるわけじゃなく、
たんに「許せん!」が観念としてあるだけなんですよね。

そういった許すとか許せん!といった裁定にとらわれるよりは、
もっと奥にある、湧き上がるワクワクとした生命に乗っかってみるっていうね。

そういう感じで良いんだと思います。

奥にあるというと遠く感じるかもしれませんけど、それは自我ちゃん目線で奥というわけであって、ホントは元々それしかないんですよね。

それしかないそれの中で、
許せん!を始めとした、いろいろな観念があって、その観念が積み重なった一番上に自分の立ち位置を想定しててね。

その観念のてっぺんから見てみると、大本のそれっていうのはものすごく深く、ものすごく奥にあるように感じたりするもんですけど、

そんなてっぺんから掘り進めていかなきゃならないってことでもなくてね。

たんに、そういうのが起こってるのねーって、
単に見てあげるんです。
てっぺんに想定してた立ち位置だけを、大元の部分に変更してあげる。
みたいなね。

ほほーん。
なーんもない中で、イメージとしての観念が絡み合ってリアリティを
頭の中だけで作っておるんやねー。

って見てあげるんです。

こういうのも、ぜ~んぶ例え話でしか無いわけですけど、
その立ち位置を変えちゃっても良いんやで!って言う可能性も、
感じてみればいいと思うんです。

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