Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

とっかかりがない

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どうしても僕らって、なにかしらの取っ掛かりを掴んで理解しようとするやないですかー。
でも「それ」の話って取っ掛かりがないんですよねー。
なもんで、どうにもよくわからん。ってことになったりするわけなんですけどね。

なのでね。
取っ掛かりを掴まなくて良いんですよ。

なーんにも掴まない。

これって、慣れないとどうにも居心地が悪い感じがしますが、
なーんにも掴まないっていうのが「そのまんま」なんです。

僕らは、何かしらの概念みたいなものを最初に掴んでおいて、
それを素地として理解を発展させていきます。

この最初に掴んだ素地みたいなもんが、ベース(基礎)になっていて、
この自分のベース(基礎)を大事に握りしめていたりするんですよね。

いつしか、そのベースがないと自分が抜け落ちてしまうのとちゃうやろか?
みたいな恐怖感も伴ってきてたりします。

なので、このベースが否定されたりするとものすごい恐怖とともに怒りを感じたりもするんですよね。

このベースの上に色々と強固な信念を積み上げて、それで成長してきたって思ってたりするんですよね。

でも、実際のところ、そういった信念ってのも、無いじゃないですか。
実体としてはね。

イメージですよねぇ。

本来のベースは、なーんにも掴んでないってことですよね。

で、なーんにも掴んでないんですから、何かしらのベースもないってことになるんですけどね。

だからねー。
まずは、
「もしかして、すぐに何かを掴んでそれを糸口にしようとしてはいないか?」

ってね。
自分で確認してみたら良いと思うんですよね。

で、そういったもんを一旦置いてみるんです。

自分の基礎を手放すなんてとんでもない!

って思うかもしれませんが、一旦なら良いでしょ?

自転車の両手離し運転みたいなもんです。

自転車の場合はコケるかもしれませんから怖い部分もあるかもしれませんが、
イメージの場合は、何の心配もいりません。

でも、何故か怖さや居心地の悪さがあったりするんですよね?
不思議ですよね。

でも、イメージですので、またいつでも掴めますのでね。
その怖さには全く根拠はないんです。

ただ、在ってみる。

っていうのは、この手放し感覚です。

手放してても、何も変わらず起こることが起こってます。

なんやねーん!怖いと思ってたけど、その怖さもイメージの中の物語ですやん!

ってなことが明らかになってくるかもです。

取っ掛かりをつかもうとしなくてよかったんやん!
つまり、わかろうとしなくても良くて、わからんままでよかったんやん!

ってことが見抜かれるんです。

この話は、簡単すぎて取っ掛かりすらなかったんです。
だから、掴みようがなく、掴まなくてよかったんです。

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