Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

時間感覚と自己感覚

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時間感覚と自己感覚、つまり私という観念はセットで現れてきます。
何かに没頭している時とか、
大自然を前にふあぁー!
とかなってる時、
はたまた熟睡してる時なんかは、
時間の感覚も忘れてます。
そしてそんな時は、私という感覚も忘れてたりするんですよね。
自己感覚を忘れていたとしても、決してアホになってるわけじゃなく、ちゃんとしてるんです。
仕事なんかは、逆にはかどってたりします。

身体も、心も、自分に属しているっていう思いがあれば、私がなくなったら身体も心も無くなるんとちゃいますのん?
なんて思ったりしがちですが、そういうことではありません。

もともと無いのは、そういった心とか身体という部分だけに付け加えられる私という概念なんですよねん。

ボールがコロコロと転がってるとしますよねぇ?
それって、ただボールが転がってるだけであって、ボールさんという誰かが転がる行為をしてるわけでは無いですよねぇ?

わかりにくいー!
っておもいますのでもう一個。

風がビュービュー吹いてるとしますよねぇ?
それって風さんという何かしらの行為者がおって、その風さんが、
おっしゃ!
今日はいっちょ、そよそよじゃなくて、ビュービューでいってみたろかい!
ってなことで、ビュービュー吹いてるわけじゃ無いですよねぇ?

ボールという誰かがいるわけでもなく、
ボールという名前も勝手にそう呼んでいるだけで、
本当にそういった名前が実在しているわけでもなく、
コロコロに対する行為者がいるわけでもなく、
あるのは、ただ、コロコロだけ。

同様に、

風という誰かがいるわけでもなく
風という名前があるわけでなく、
ビュービューに対する行為者がいるわけでもなく、
ただ、ビュービューがあるだけ。

それと同じで感情や感覚、思考の持ち主、
自分というのも、いてないんですよね。

感情や感覚、思考があったとしても、
そこに自分という誰かがいるわけではなく、
自分の名前があるわけでなく、
感情や感覚、思考の行為者がいるわけでもなく、
あるのは、ただ、思考や感情、感覚があるだけ。
自分という概念もその思考の一部にすぎないってわけなんです。

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