Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分が自分に話聞かせるのが物語

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自分が話して自分が聞く。
これが、まさにストーリーなわけですが、
頭の中で、考えのおしゃべりが続いてる時って、まさにそんな感じになってるんですよね。
で、
ということはつまり~~で、ということは、~~で~。
って話を発展させていき、そして、それをまた自分が聞くことによって、
さらに、その物語にリアリティーを加えていくんです。


自分の言葉の一番の聞き手は自分だ!
とはよく言ったもんですね。


自分でしゃべってー、自分が聞いて―。
ってのを、頭の中で延々と繰り返しちゃったりしちゃうんですね。


でもって、考えと感情が相互に影響しあって、
考えが、感情を作り、
そして、感情がまた新たな考えを産み出す。


みたいなね。


それで永久機関のように物語が発展していくわけです。


適当な考え事、頭のおしゃべりくらいなら、
おっ!今日も絶賛、しゃべっとるな!


って見てあげれば、すーっと消えていきますが、


ただ、見てあげるだけでは消えそうにないようなものもあるんですよね。


例えば、怒りとか不安とか、そういった感情が伴っているものだったりすると、
なっかなか消えてはくれません。


それって、その奥にある観念があるんですよね。


なんていうか、自分が正しいとする何か?です。


自分はこうあるべき。みたいなガイドラインのようなものですね。


それがあると、そのガイドラインに沿わないものやガイドラインに不具合を生じそうなものに対して、怒りを感じたり不安を感じたりするんですよね。


なので、怒りや不安を見てみるのも良いんですが、それに先立つ
ガイドラインの方を見てあげると良いんですよね。

 


すると、そのガイドライン、つまり観念に気づくことが出来ます。


でね。
そこで、やりがちなことがあるんです。
ハマってしまいがちなことなんですけど、
それが、この「観念」を取り去ろうとすることなんです。


そんなもん、取り去らなくても良いんですよね。
ただ見てあげるだけで。
取り去ろうとすると、次から次で、きりが無かったりします。


取り去ろうとしちゃうのは、そういった観念を取り去って、綺麗な自分になろう!
みたいな観念がさらにあったりするからなんですけどね。


キレイなジャイアンとか、キレイな自分になろうとしなくても良いんです。


良く、海の水と波にたとえられたりしますがね。
常に波のないキレイな水面でいようとしなくても良いってことなんですよね。


そんなん無理ゲ―ですからね。


そうしようとしちゃうと、波が起こるたびに、
「ああ、まだ自分にはカルマが残っている。取り去らなきゃならないんだ。」
みたいに思っちゃってね。


延々と修行が続く。
みたいなことになったりもするんですよね。


嫌なことを許すんじゃなくて、嫌なことも起こる自分をそのまんま許してあげるんです。


大波が来たら逃げずに受け入れなければならない!
ってことじゃなく、
大波の日もあれば、小波の日もあるよねー。
ってことを受け入れてあげるんです。


そうすると、自分という観念も、ただの観念でしかなかったというのが明らかになるかもしれません。


っていうか、ガイドラインとか正しさを維持しようとするエネルギー的なものが自分という観念の元であって、許せん!っていう思いがそれを維持しておっただけなんですよね。


それが探究のエネルギーやったんです。

 

つまり、目の前のあるがままに対して、何かしら許せない!正しくない!
という思いが、ガイドラインを維持し続けていて、
この維持し続けられているエネルギーが、探求や、自分という観念を生み出している。
ってことなんです。


なので、自分ってのも、そもそもおらんかったわけなんです。

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