Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「起こってる」と「起こってない」はセットなんです。

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ほら、音ってやっぱり静かさがあるから音が認識できるわけですよね。
書道の文字にしても白い部分があるから、黒の部分も映えるわけであって。

何かしらの起こってることも、なーんもないがあるから起こってられるんですよね。

起こっていて起こってない。

これって、セットなんです。
「起こってること」って「起こってない」がないと成り立たなくて、
でもって、それらは一緒なんです。

で、起こってることだけに注目しちゃうとなんだかそのストーリーだけになっちゃって、
なんだか、逃げ場のなさというか、窮屈さを感じちゃうんです。
そして、そのストーリーの土台には「自分を守らなきゃならん」というテーマがあるんでね。
自分が損なわれないようにしなきゃいけないし、よりよくならなきゃならないし、
でも、そんなこと、いつでもうまくいくわけでもないしね。
で、やっぱりシンドイんですよね。

なので、しんどさにも、
よりよくなりたいし損なわれたくない系の
ある程度具体性のあるしんどさもありゃ、
よくわからんけど、なんとなく窮屈。
みたいなものもあり、
それらがブレンドされたものもあるのかもしれませんね。

ま、それはさておき、
元々は「何もないがあるんでっせ!」
ってのは、この起こってることのキャンパスみたいなもので、
起こってることの土台でもあり、
かといって、起こっていることと土台には距離はないんです。

でね、
よく幻想のストーリーなんです。って言うじゃないですか?

これってね。

起こってることが幻想のストーリーってことじゃなくてね。
起こってることの解釈の方が幻想のストーリーなんですよね。

キャンパスの上にマス目を描いて区分けをするとしますよねぇ?
で、起こってることは、単にマス目のように見える何かが描かれてるだけ。
実際に区分けがあるわけでもなく、区分けという実在性もないんですが、
これに解釈が加わると、このマスとこのマスとでは、区別があって、
分けられてるように見えるんですよね。

ほら、
海と砂浜の絵が書いてあったら、
こっからここが海で、
こっからここは砂浜。
って自然に思うじゃないですか。

でも、海でも砂浜でもないってのも当たり前なわけでね。

観念ってな言葉を僕もよく使ってますけど、
この観念ってのは、この解釈のようなものなんです。

で、この観念・解釈から物語の土台が出来上がり、
でもって、思考が発展していくって感じなんです。


半紙の上に書かれた書があったとしてね。


この黒い部分は起こっている幻想のストーリーで、
この白い部分が土台である「それ」ですよね!


で、僕ら探究者はこの白い部分にリラックスして在るようにならなきゃ!なんですよねっ!


でも、やっぱりほら、黒って目立つから、どうしてもそこに目が行っちゃって、白い部分を忘れがちなんですよねー。
もちろん、この黒い部分が、半紙から離れてないってのは理解してるんですけどねっ!


みたいなことって、なんか変ですよねー。


いやいやいや、もう全部がそれそのものですねん!
全部合わせて、それが「書」ですねん!


ってなりますよね。


ま、そんな感じで、
色(しき)も空(くう)がなきゃ成り立たないですし、それ以前にそれで一つのもんですし、
ずっと空(くう)にいるんだー!って色(しき)を無きものにするのも、ある種のこだわりでしかないわけなんです。

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