Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

分かろうとする癖

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よく書いてますが、
分かろうとする癖が、分かろう分かろうとして、それが探求となってるんですよね。

じゃあ分かろうとしないようにしようとしたところで、
それも、「分かるためにわからんようにする」をやってることになっちゃったりしてね。

おっかしいなぁー。
わからないようにしてるのに、一向にわからないんですけど??

みたいな変なことになったりするんです。

じゃあどうしたらええんやってことなんですけど
まず、このわかろうとする探求のエネルギーを見てみると良いんです。

なんやねんこのエネルギーは?

って観察して見るんです。

観察なので、答え探しじゃありません。
単純にエネルギーの質を見るだけです。

すると、わかろうとするエネルギーが、
なにかを無理くりわかったことにして、
そして、そのわかったことが、何かを確定して、
その確定が分離を作る。

みたいな流れが見えてくるかもしれません。

言葉だとややこしいですが、
簡単な例えだと、
この目の前の物体はなんだ?
あ、これはコップか。
コップの中にはコーヒーが入っているのか。
このコーヒーはもちろん、私ではなくコーヒーである。
砂糖いれちゃおっかな?
太るかな?

・・・

みたいな感じで発展していく物語ですね。

ちなみに、コーヒーはコップに入っている間はコーヒーですが、
飲んでしまうと何になるんでしょうね?
飲んだコーヒーは自分なんでしょうかね?

わかんないですよね。
分離という前提で考えてるとどっかで無理が生じるんですよね。

何かをわかろうとすると、必ず分離という概念がつきまといます。
これはセットになってるんですよね。

そして、このセットで分かるを追求していくと、
どっかで絶対つまづくんですよね。
なぜなら、分離という前提に無理が生じるからなんですよね。
でも、何かを分かるというのには、分離という概念がないと成り立たないので、
堂々巡りになってくるんです。

わからんでいると最初から分離がないんやんってのが明らかになってきます。
分かるっていうシステムごと、ただみて見ると、このウソさが見抜けてくるんです。

で、ウソさが見抜けてくると、わからんでもいいんやん。ってなってくる訳です。
わからんでいいんやから、
なんかもう、そのまんまにゆったりしておってええんやんってなってくるんです。

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