「それ」とは最初っからある大元の「それ」です。
言葉以前にあるモノですので、「それ」を指し示す言葉はどんな言葉を当てても違うものとなります。
便宜上、「それ」への目覚めだとか、悟りと呼ばれていたりします。
悟るではなく、悟りです。
それは悟るとなると、主語である誰かがいると暗にイメージされるから、ただ「悟り」と言われてたりするわけです。
さて、最初っからあるのが「それ」ですから、最初から無いモノを排除していけば、残るモノが「それ」です。
これ以上なくシンプルなものが「それ」なわけです。
なので、どんな説明を尽くされても、その説明以前のモノが「それ」なので、
説明の先、理解の先には「それ」はないんです。
頭で考えている思考は、「それ」ではなく、
起こってくる感情は「それ」ではない。
思考や感情以前に起こる感覚、
聞こえる音、触れる感触、
これも「それ」ではない。
残るのは、なんでもない宙ぶらりんな「それ」のみとなります。
あらゆる理解が排除されたときに「それ」が残ります。
ここで、全てがひっくり返ります。
あらゆる理解というのは、
頭で考えている思考は「それ」ではない。
起こってくる感情は「それ」ではない。
思考や感情以前の五感の感覚は「それ」ではない。
といったモノもただの理解でしかない。っていう風になります。
全ての中で何かしらの理解が起こっていただけ。
という風になります。
「それ」じゃないものはないし、「それ」であるものも無い。
どんな理解も通用せず、宙ぶらりんで、なんでもない。
起こっていて起こっていない。
それでいて全てである。
全てであるので、全て以外のモノがなくなります。
この辺りが言葉の限界になりますね。
理解というのが、一人相撲の始まりでしかなく、
どこかで、理解が無けりゃ何も始まらない!って思いこんでいただけだったんです。
理解されたものを徹底的に排除していくと、
何かにつかまろうとする衝動がのこります。
宙ぶらりんでは気持ち悪いとするエネルギーです。
この衝動が探究のエネルギーとして何かを確定しよう!判断しよう!としています。
その衝動をそのまんまに放置しておくと、
この、衝動によって作られた世界から自由になります。
衝動を収めようとするのではなく、衝動は衝動の都合でただ起こっているだけなんだとなります。
外に風が吹いているのは、風の都合で勝手に吹いてます。
それと、同様に、衝動は衝動の都合で起こっているだけなんです。
衝動によって作られた、理解という足かせが外れると、
不思議なことに、最初からそんな足かせなんてなかったんだと気づくんです。