Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

感情や感覚をただ見てみるということ

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嫌な感情とかをそのまんまに見ようとした時には、
すごい、思考のおしゃべりが邪魔をしてきたりします。

嫌な感情をそのままにいさせてあげることが出来ないんです。
だから、思考のおしゃべりを繰り返して、
思考の弾幕のような形を作り出し、感情を覆い隠し、
感情を見なくてもいいようにしようとしたりするんですよね。

そやって、感情は抑圧されて行くんです。

一旦隠れて、もう見えなくなるんですが、
抑圧された感情は、それを表現できずに残ってたりするんですよね。

そして、何かしらのトリガーをきっかけにまた出てきたりします。

誰かの一言にものすごく傷つき、ものすごく腹が立ったり、
何かしらの状況にとても不安を覚えたり、、、

こういったのも、原因が実は嫌なことを言った誰かのではなく、
状況のせいでもなく、
そのトリガーをきっかけに、自分の中にあった抑圧された感情が出てきた。
てな場合がよくあります。

そのまんまに見てみよーとして、思考のおしゃべり観察とかしてたりしても、
いつの間にやらその思考のおしゃべりに巻き込まれたりするのって、
その奥の感情を覆い隠そうという意図があってのことだったりしてたりするんですよね。
だから、思考のおしゃべりに注目するんじゃなくて、
感情の感覚を味わってみるつもりで、
その感情をジャッジしたり、収めようとしたりせずに
表現させてあげて味わってみるようにしてみたらいいと思います。

特に自我が嫌がるのが、自分がいるという感覚を見ることだったりします。
このウソさを見抜かれるのがものすごく怖く感じたりするんです。

今まで温めてきた、
夢や希望も
根こそぎ奪われてしまうんじゃないか!
みたいな観念も出てきたりします。

あの手この手で自分がいるというウソさが見抜かれるのに対抗しようとしたりするんですよね。

だから、いろんな観念や思考が弾幕となって、
そのまんまを覆い隠そうとしたりするわけです。

そういう時も、単純に、そういう思考は、置いておいたらいいと思うんです。
そして、
ただいまある感覚。
それだけを判断なしに見てみたらいいと思います。

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