Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私は誰か?と問い続けるコツと、分離のウソさが明らかになるとき

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別に思考が嘘をついているというわけじゃなく、
厳密に言えば、自分がいるというのが嘘やったということなんですよね。

もーっと厳密に言うと、自分がいるという以前に分離というのがウソなんです。

自分が思考しているわけでもなく、
この思考が自分という何かに影響を及ぼしているわけでもない。

何かを自分が選択しているわけでもなく、
単純にただ、選択という思考が現れていて、
そこで何かを誰かが決めるわけでもなく、
淡々と思考が起こっているだけ。

思考も思考のように見えているだけっていうね。

分離のウソさと自分がいるというウソさを見抜くコツっていうのは、
やっぱり一つ一つよく見て確認していくのが良いと思います。

 

ラマナマハリシさんっていう、インドの聖者さんは
「私は誰か?」と問い続けなさい。
って言ってはります。

私は誰か?と問い続ける。
というのは、
ちょっと一見訳が分からないかもしれませんね。

これは、どんな感じかと言いますと、

まず、
目の前にコップ
(※目の前のコップって僕しょっちゅう使ってますねぇ。いつも目の前にコップがあることが多いもんで、、、)

このコップは私ではないですよねぇ?

スピリチュアルとかで仕入れた知識とか一切おいておいて、当たり前に見ていくことがコツです。

テレビから聞こえてくる音。
これも私ではないですよね?

コップもテレビの音も、なぜ私ではないのか?というと、
私が見てたり聞いてたりするからですよね。

私が見てる、
私が聞いてる。

つまり私ではない。

駅前のトイレに入った時に香る、何とも言えない不快なニオイ。

これも、ワタシではないですよね?

私が匂いを感知しているわけですから、
匂いは私以外のところにあるはずですね。

なので、ワタシではないと言えますね。

さて、次は、
コツーんと打った足の小指の痛み。

この痛みの感じ。

これはどうでしょう?
痛みとして感じていますよね?
この痛みを感じている、この痛みに気づいている。
これが私なのだとすると、私が感じている痛みは私ではないですよねぇ?

身体に感じる感覚。
音も、映像も、匂いも、痛みも、
感じている、気づいている私がいる限り、
これらは私ではないことになります。

では、怒りとか悲しみ。

これにも気づくことが出来ますよねぇ?

すると、怒りも悲しみも私ではありませんね。

身体に感じる感覚も、心に感じる感覚も
気づくことが出来ます。

気づけるのは気づく私がおるからであって、
そうなると、

身体の感覚も、心の感覚も、私ではないという事になるんです。

気づきは確かにある。

でも、身体にも心にも私はいない。

そういうことになっていくんです。

あらゆることに気づける。

気づけるけど、その主体はどこにもいない。

確かにあるのは気づき。

・・・

あれ?
私ってどこにおるのん?

確かに気づきはあるけど、あるのってそれだけ??

私がいるという概念には気づける。

これも思考に気づくのとおなじ????

気づき以外の主体とか客体とか、、、
どこを探してもそんなもんがない。。。。

あれれれ????


主体と客体がひっくり返って、
ひっくり返った瞬間、主体が消えちゃった???

っていうか、最初から無かった????

この混乱にも気づいている。

あるのはこの気づきだけ。。。

主体も客体もないのなら、分離もないし、私もない???

・・・


私は誰か?と問い続けると残るモノ。

気づき。

これが「それ」そのものなんです。

気づきのなかには全てが在ります。

そして、気づいていないものはありません。

ほんと「それ」だけ。

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