怒りやら悲しみやら、不安やら。
そういった嫌な感情がね、自分に向けて起こったり、
他人や外に向けて起こったり、
そやって起こってくるもんですよね。
どこに向かって起こってようが、
そういうのはどんなものであっても、自分の中で起こってるんですよね。
で、楽しいことや嬉しいことならそのまんまでいいんですけど、
怒りとか悲しみとか不安とか。
そう言ったものは、どうしても、フタをして閉じ込めてしまったり、
なんか解消したりしなきゃならん!
ってね。
思ったりしちゃうんですよね。
どうにも、そのまんまにしておくと居心地が悪かったりするんです。
なので、何かと人を批判することで、溜飲を下げようとしたり、
環境に解決策を求めて、より良い環境を求めて、
お金をたくさん稼ぐこととか、いい家に住むとか、
いい地位につくとか。
そんな事に目を向けてみたりね。
そうやって、フタをしようとしたり、何かに代わりを求めたりね。
別に金儲けは全然いいし面白いのでガンガンやればいいと思うし、
良い家に住むのもより良い環境を求めるのも大賛成なんですけどね。
それを楽しく、単純にたのしーにやれば良いんですが、
なんか変な理由をこじつけて、そういった環境によって、
何かしらの不安を避けるための、防御壁にしようと目論んだりしちゃうと、
キリがなかったりするんですよねー。
しかも、そうそううまくいかなかったりするので、余計に不安を抱え込んだりね。
で、また、人や社会批判に向かったりとかで、外に何かしらの原因をぶつける事で、
自分を優位の位置に置く事で、なんとか溜飲を下げようとしたりしてね。
そやって、外に怒りを向けたところで、
怒り自体ってのは、自分の中で起こっとる事ですからね。
結局のところ、外に向けたと思ってる矛先も、
自分に向けとるってことになるんですよねん。
これって、結局、自己不信やったりするんですよね。
自分がたのしーにやってたら、外がどうあれ気にならないですからね。
なので、結局のところ、そういった怒りとか悲しみとか、不安とか、
どうにもそのまんまにしておけないっていう感情ってのもね。
自己不信から来ているものであって、
これも分離という幻想がね。
自己不信を呼んでたりするんですよねん。
分離ってのは、何かを半分にしちゃう事ですからね。
そうなるとどうしても、何かが足りなくなっちゃうんですよね。
分離があるといった概念がね、
エネルギーをもって現実味をまとうことによって、
何かが足りないー。
みたいな感覚を生み出すちゃうわけなんですよね。
・・・
さてさて、
というわけでね。
前置きが長くなってしまいましたけど、
ここから本題に行ったろうかと思います。
いやいや、
この辺のことって、結構よく言われてるじゃないですか。
えらい悟りを開いたみたいな人とかがよくゆーてますよねぇ。
でね、
そういう事を聞くと、
やっぱり、こういった悟りを開いた偉い人は
怒りとか悲しみとか、
そんな感情に右往左往したりせず、
いっつもニコニコ、
楽しくやってるんやろうなぁー。
いいなぁー。
自分はまだまだ、怒りとか悲しみとか、
そんなん起こってくるわぁー。
そりゃ、一瞬、全ては一つ!
みたいにねー。感じたこともあったんだけどねー。
その時は良かったんだけど、
ちょっと時が経つと、やっぱり戻ってしまってるわぁー。
早く自分も、そんな嫌な感情が起こってこない。
っていうか、そういうのに囚われないようになりたいわぁ~。
てね。
思うじゃないですか!
エロい先生や悟りを開いた聖者さんはそんな嫌な感情とは無縁な生活送っとるんやろうなぁ。
ってね。
思ったりしまよねぇ。
そういうのが、なんていうか、
大きな誤解を生んだり、さらなる探求のエサになったりしちゃうことって
あると思うんですよねー。
そういうエサが今度は、
悟りとかを求めたりしちゃうんだと思います。
というわけで、明日は探求のエサについて書いてみたいと思います。