Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自我ちゃんは自身を取り戻そうとおしゃべりする

f:id:takuteto:20160926092442j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

それそのものにリラックスすること。
これは言い換えると、ワタシの死ということになります。

ですが、この
ワタシの死という言葉にも、
誤解を生むポイントがあったりするんですよね。

たしかに、それそのものにリラックスするというのは、
ワタシという幻想の終焉です。

なぜなら、ワタシというのは、動きであって、
リラックスとは動きがない。
なーんにもしてない。
ということだからです。

でもね。

そう言ったことをいろんな人が言ってはりますけど、
確かに、ワタシというのは消えるんですけど、
このワタシが消える。っていうのは、
多分、思ってるような事じゃないんです。

何かが消えたり、なくなったりというよりは、
最初からなかった事の発見に近いニュアンスです。

最初からそうだったので、何かが特に変わるわけでもなく、
知ってた事が改めて、明らかになる。みたいな感じです。

じゃあ、何か新たな忘れてた知識が蘇るのか?


忘れてた何かがあらわれるのか?

というと、そういうことでもなく、
知識、分かることへのこだわりが、
「それ」を見失わせていたことの発見。
って感じに近いかもしれません

なので、誰かがそうなるわけじゃないんですよね。

となると、
自分はよくよく考えてみたら、
まだ、自分自身の死を恐れている。
だから、まだこの恐れが克服できていないので、
至っていないのかなぁ〜。

みたいな考えとかね、

嫌なことも、まだまだ全然起こってくるし、それに同一化しちゃうし、
それをそのまんまに見過ごせば、「それそのもの」ってのも分かるんだけど、
気を許したら相変わらず頭の中のお話は止まらないしねー。
ちょっとまだワタシにはまだまだ理解が必要なのかも・・・。

みたいな考えって、ちょっと違うんですよね。

はたまた、
それそのものというのも自我も含めて、考えや感情も含めて「それ」なんでしょう?
全てはもう完璧なんでしょう?
じゃあ、今のまんまでもうそれそのものなんだから大騒ぎする必要もないし、
もう別にこのまんまでいいんじゃん。

みたいな考えも浮かんで来ちゃったりしてね。

どうにかして、何かしらの拠り所とか、
そういうのを求め続けてたりもしちゃうんですよね。

で、それで正常なんです。

こういった全てのおしゃべり
それが自我ちゃんなわけで、
幻想のおしゃべりです。

幻想ってのは幻想としてただ起こっていて、
それがワタシというわけじゃないんです。

ワタシってのは、この妄想や幻想の中を探しても見つかりませんよね?

中心点はどこにもないんですよね。

そのことが明らかになるだけなんです。

自我ちゃんなんて呼んでいますが、自我ちゃんという何かも存在せず、
ただ、思いが言葉になって頭を駆け回っているように起こっているだけ。

それはそれで、正常なんですよね。

で、そこには誰もいないんです。

これってね、何かを系統立てて理解しようとしても理解できないんですよね。

だって、理解して納得するというルール。
これがおままごとのルールに過ぎないということが明らかになることだからです。

そのものについて、明らかになっているのであれば、
それを理論立てて納得しようとはしません。

ただ、わからないままに落ち着くだけなんです。

自我に消滅は自分の死ですが、死を克服しなきゃいけないだれかもおらんのです

恐怖が起こっていたら、ただそれが起こってるだけなんですよね。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
あなたのポチッが励みになります!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ