運命とか宿命っていうのがあるのかないのか?
運命があるとすれば、どうやったらその運命を好転できるのか?
みたいな話って巷に溢れていて、もういろんな解釈がありますよねぇ。
良い運命を引き寄せる「引き寄せの法則」とか「願望実現」とか、
こういうのって、興味が尽きないじゃないですか。
たまに、こういった引き寄せとか運命論を絡ませた非二元の質問とかももらったりするんですけどね、
どうにもこうにも、その運命とかがあるという前提で質問をされてもどうにも答えようがないんですよねぇ。
って思ったりすることがあります。
運命っていうのって、結局、「時間」というものが存在するというのが前提になってたりするじゃないですか?
で、原因と結果。みたいな法則があって、ていうのが前提になったりするんですけどね。
つまり因という種をまいておくと、果が実を結ぶ。
みたいな、因果の法則ですね。
でも、ここで言ってることっていうのは、
そもそも分離なんてものは存在してませんやん!
ってことなんです。
分離がないので、行為者と言うだれか?っていうのも、見かけ上あるように見えてますが、そう見えているだけでしかありませんし、
行為者がいないので、因果の法則ってのも物語ってことになります。
起こることはただ、起こっています。
その起こっていることに理由づけやレッテルづけをしていくと、物事が刻々と変化しているように見えてきます。
そして、その変化を測る単位として、時間と言う概念があります。
これもレッテルから発展した物語という事になります。
物語と言うのは、見かけ上起こっている事です。
時間が単なる単位という概念だとなると、運命と言うのも実体のない概念という事になるんですよね。
結局、人生というのは、ある種の概念を通した目で見た世界を逐一、記憶していき、
その記憶の物語だという事なんですよね。
よくある成功哲学みたいなものは、この世界を見る概念を何とかこねくり回して世界をより良く見よう!
みたいな試みなのかもしれません。
でも、概念は概念なんですよね。
全ての苦も概念上でだけ存在します。
概念を採用しなきゃ苦は存在しません。
なので、苦をなくそうと概念をこねくり回したところで、苦は付きまとうんです。
でも、
ここで、
一個だけ選択できることがあるんですよね。
それは、概念を採用するかしないか?
という事です。
単純にそのまんまでいるか、概念の中に入り込んでいくか?
この選択はできるんですよね。
行為者はいないくせにね。
概念を採用しないでいるならば、もう生命そのものしかなく、それが全てです。
生命そのものが至福であり、完璧です。
運命を好転するとかは、概念と言う物語の中でのことなんで、
もうどうでもいいことなんです。
結局、運命を好転させて、人間関係を良いモノにしたかったり、
金持ちになりたかったり、健康で若くいたかったり、
なにかしらより良くなりたかったりね。
そういうのも、最終的には、苦に対する安心がほしかっただけで、
その安心は、はじめからあるもんだったんですよね。