Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

僕らは、何にも失ってません。

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ここで言ってる「それ」とか、いわゆる真我とかね。
これって、僕らは一回も失ったことって無いんですよね。
ホントのところは。

にもかかわらず、それを探し求めちゃったりしてるわけです。

このね、
「真我」ってやつは、
赤ん坊の頃の何にもとらわれていない感じ。
それ、そのものなんです。

赤ちゃんをみたら、
なんて無垢なんだ!
って感じたりしますよね。
もう、それで完全やないですか。

そして、僕らも紛れもなく赤ん坊やったわけですよね。

そして、そこから、なぜかその無垢さをいつの間にやら
失ったような気になってたりしてたりするわけですが、
実はそんなことないんですよ。

失ったりしてないんです。

失うどころか、色々と付け加えてるだけなんですよ。

あなたの名前は○○よー。
とか、
あれは、ヘリコプターよー。

とかね。

そやって、教わったりするうちに、色々と付け加えたんです。

そしてね、
その付け加えられた様々な概念をね、
ぜーんぶ取り除かなきゃならないとか、そういうことじゃないんですよね。

ただ、付け加えられただけの概念は概念でしかないんです。

あれは、何で、私は誰で、とかね。
そういう概念を聞いているうちに、
自分とその他という概念にいつしか夢中になっていって、
その概念内で世界を構築していってるだけであってね。

元々の無垢さ?みたいなもの。
なーんにもわからない。
概念に答えを求めてすらいない。

その元々の「それ」ってのは、失いようもないんですよね。

単純に、概念を概念として見抜いているだけかそうでないか?
それだけです。

全ての構築された世界はただの概念でしかないというのは、
明らかなんです。

ただ、概念上でそれを理解しようとすると理解できようがないんです。
その理解すらもただの概念だからです。

なので、なーんもわかる必要すらないんですよね。
わからないままにいると、明らかさが蘇ります。

このわからないまんまこそが「それ」そのものです。

その中で概念遊びをしておっただけなんです。

その辺が明らかになってくると、
なーんもわからないまんまに、
概念の物語の中に入っていくことができます。

概念がウソなんや!
みたいなこだわりすらなくなります。

概念がウソで「それ」がホントとかいう
そんな判断も最初っから無いんですよね。

なので、
明らかになったところで
表面上はなーんにも変わることはありません。

ただ、概念の中だけにいることは無くなります。

あ、そっか。
そのまんまでよかったんや!
ってなるだけなんです。

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