Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「それ」を見抜いたのと、そうじゃないのとでは何か違いがあるんでしょうか?

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「それ」を見抜いたのと、そうじゃないのとでは何か違いがあるのか?
なーんて思ったりしますよね。

普段、僕らには、良いことがあったり、嫌なことがあったり
そんなことの繰り返しな訳ですが、

「それとはまさに完璧で愛である。」

「そしてそれしかない」のであるならば、
それを見抜いた人ってのは、
ずっと嫌なことなんてなく、愛に満ちた状態が続いてるんだろうか?


そうじゃない人と、そういう事を言えちゃう人って一体、何が違うんだろう?
何も違わない。
特別じゃない。
っていうのであれば、
なぜに全ては完璧で全てしかないなんて言えるのだろう!?

だって、嫌なことだってあるんだろうし、、、

なんてね。
思ったりする人、多いと思います。

こういうのってね。
多分、何かしらの状態になるといった考えが根底にあると思うんですけどね。

もし、この状態になるという考えがあるのだとしたら、それはちょっと違うんですよね。
なので、まずはそのあたりの考えは参照せずに置いておいたら良いかもです。

この誤解が元にあると、状態を得るために、
修行を追い求めたり、スピ系ワークに精を出したり、
ってね、
そんな状態を追い求める、自分が何かになる。
という終わらない追及、探究にはまり込んじゃったりするかもしれませんからね。

結局のところ、
自分がいて、その自分に感情や何かが起こっている。
と思っていたけど、
そうじゃなくて、

まず、起こってることがあって、それに自分をくっつけているだけ。

ってことなんですよね。

で、それらの起こっている事の経験だけが、今ここにある。
という事なんです。

そこにくっつけている「自分」と言う概念には実体はありません。

何かを掴み取ろうとする感覚。
わかってモノにしようとする感覚ってのは、
探究のエネルギーなんですけどね。

その探究のエネルギーっていうのは分離があるという前提でもって表れています。

実際のところ、この探究のエネルギーってのは本当にあるというわけじゃなく、
あるように見えているんです。

そして、このあるように見えているものに現実感、リアリティーを付け加えて、それを現実としているんですが、それら一連の流れがクセとして存在しています。

そして、あまりに定着しすぎているので、これがひとつのクセでしかないということにも無意識になっちゃってるんです。

見抜くのはこのクセのことで、見抜かれるとこのクセが徐々に抜けていくんです。

自分がいないというのも、元々あった自分がなくなる。
ということじゃなくて、
最初から自分というものは無かったということを知るだけの話です。

でもって、「それ」を知ったとして、
何かが変わるわけではないですが、
何かを分かってそれを掴もうとするクセがなくなっているという感じです。

このクセが、執着とか探究のエネルギーとかいうやつなんです。

誰だったかエライ先生が、
これって、
地球が地平線だと思っていたら、端っこに行くと落ちてしまうんとちゃうやろか?
って、漠然とした不安はぬぐえないわけですが、
地球が丸いということを体感として知っているという感じに似てます。
とか、言ってたのを聞いたことがありますが、

ホント、そんな感じで、
地球が平面だと思っていても球体だと知っていても、
なんら何かが身の回りで変わるわけではないですが、
地球が平面であることによる漠然とした不安はなくなる。

っていうのに似てますね。

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