Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私はいないと、全ては私

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おはよーございます。
タクさんです。

今日は、「ワタシ」ということについて、ややこしいことを書いていきたいと思います。

私はいない。

全ては私。

これって同じ意味なんです。

この、「私はいない」っていうのは、
今、あなたが感じている私という感覚。
それがそのまんま無い
というのとはちょっと違って、
この私という感覚は普通にそのまんまあるんです。

ただ、それが私じゃ無いってことなんですよね。

感覚の前に私ってのがいるわけじゃなくて、
感覚が先にあってそのあとに私という定義があるという感じです。

なので、本当はこの感覚って私という感覚じゃなくて、ただの感覚なんです。
感覚の前には私とか自分っていうのはいないんです。
これは、ちょっとご自身で確かめてみたらはっきりすると思います。

感覚の前に私とか自分というのは先立たないんです。

感覚の前に、私とか自分という誰かは見つけられません。
感覚があって初めて、それを「私」とみなしているんです。

なので、いつも普通に感じている自分という感覚。
この感覚ってのが突き詰めていくと、気づきなんですけど、
どうしても分離の幻想みたいなものがその気づきにくっついていて、
それが私という感覚としてあるように見えてるんです。

で、この私があるから、誰か他の人や他のものがあると発展していくんです。
そして、
そういった分離を大前提とした世界観を作り上げていってるわけなんですね。

私というのも、他のものというのもただ等しく気づいているんです。

そして、私という気づきも、他のものという気づきも同じ気づきなんです。
ただ、分離という感覚が、私と他のものと言う風にしているだけなんですね。

なので、「私はいない」って言うのは、
何も、今自分で感じている「私」というのがなくなるのではなく、
何かが今と変わるわけでもなく、
ただ、
最初っから「私」と言う何かがいるということじゃない。
って言うことに気付くだけなんです。

そして、この「私」と感じている感覚。
この感覚の前に「私」があるわけじゃなく、
最初に感覚ありきで、そのあとに「私」がくっついてきているだけ。
そして、そのくっついてきた「私」を採用することによって、
私とその他。
と言う分離が現れているだけ。
ということなんですね。
なので、分離ってのは実際にあるんじゃなくて、あるとしているだけ。

本当にあるのは全部しかないんですよね。

 

そして
「全ては私」
というのも、結局のところ
言っているのは、私はいないというのと同じであって、
ただ、アプローチが違うというだけなんです。

私も他のものも他の人もあらゆるものも、
ぜーんぶ等しく気づいていますよね。

じゃなきゃ、そういった認識が出てくるはずもないわけですから。

これらの気づきっていうのは、自分の中で、
私の気づきとして起こっています。

この私の気づきが、
「私はいない」というアプローチでは、
私という感覚の中で気づいていると思っていたけど、
この感覚に先立つ「私」って言うのはよくよく観察してみるといないよねー。
って言うアプローチなんですけど、

全てが私というアプローチは、
ぜーんぶ、割とあらゆるものは、この私という感覚が気づいているよねー。
というアプローチです。

全ては私以外のところでは起こりえないし、
私の中で全ては気づかれています。
全部が私の中で等しく気づかれている。
そして、私という概念さえも一つの気づかれているものにしか過ぎないわけで、

そーなると、「全部が等しく私」ということになります。

そうなるともう、全部が等しいんだから、
私と他のものという分離が意味を失います。

全部しかない。
ということになるんです。

どちらからのアプローチで観察してみても、
結局のところ、全部しかないんですよね。