Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

適当こそが中道

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しっかり手放さなきゃならんとか、
自我を滅却しなきゃならないとか、

体験があったけどまだ自我が残ってるから、
次の過程としては、この自我を完全に起こらないようにしなきゃ!

とかね。

そういったことを気にしてたりすると、
そうじゃないことが色々と湧いて出てくると思うんですよね。

こういうのを頑張ろうとすればするほど、
ありとあらゆる修行的なワークに精を出しすぎたり、
いろんな人の話を聞きに行きまくったりね。

そんなことをすればするほど、余計に完全じゃない自分が気になったりするんですよね。

真面目に話を聞こうとすればするほど、

あの先生の言ってたことはつまりどういう事なんだろう?

みたいにね。
気になったりしてね。

こういうのって、ホント、テキトーで良いと思うんですよ。

テキトーというの最適だという事ですからね。

完全だったり完璧を求めようとすればするほど、
完全からはほど遠くなったりしてね。

それなら、どうせ
元々が完璧なんだから、
もう、在るがままに任せときゃええやん。

ってね。
そのくらいのテキトーさで良いと思うんです。

ちゃんとわかろうとするとややこしくなります。

なぜならわかることと言うのは、何かしらの概念を取り入れるという事になりますからね。

概念を取り入れるという事は、
何かの時にその概念を参照するためだったりするんですが、

実際のところは、概念を参照したときだけ、不完全さがあらわれるんですよね。

なぜなら、概念と言うのは物語だからです。
物語をリアルに成り立たせるには、どうしても分離が必要となるので、
その分離した分だけ、不完全になっちゃうんです。

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