Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「それ」は変幻自在

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「それ」は一見、変幻自在に見えます。

「それ」は水がどんな形にもなるのと同様に、
どんな現れにもなるんです。

で、その現れの方だけを習慣的に見てしまうと、
「それ」の本質を見失うことになっちゃうんですね。

丸いコップに入った水。
四角いコップに入った水。

いずれも水には違いないですが、
現れとはこのコップの形のようなものです。

どんな形になろうが水が水以外の何かになるわけじゃないのと同様に、
「それ」自体が、それ以外の何かになるわけではないんですよね。

常に「それ」しかありません。

一部のようにみえていて、同時にすべてであるんです。

「それ」とは質そのものです。

その質がすべてに充満しているんです。

「何にもなさ」という質がすべての可能性を包括しているんです。

無色透明のモノにはどんな色でも付けくわえられるのと同様に、
「それ」にどんな意味でも付け加えられるわけです。

そうやって付け加えられた意味は
人それぞれの意味です。

人がその意味だけを捉えて、「それ」の本質を見失うと、
自分が持つ意味だけが正しく、他人の持つ意味が自分のモノと違うと不安になったりするんですね。

だから、共感したり反発したりも起こるわけだけど、
それはコップの形の方しか見えていなくて、水その物を無視しているようなものなんです。

さらに、この形は夢想の中で行われているようなもので、実体はなく、
オママゴトのルールと変わりがないんです。

例えば、
あなた個人が持っている自分自身についてのイメージって自分しかもっていなくて、
友達が持っているあなたのイメージとも
家族が持っているあなたのイメージとも別物なんですよね。

こういったイメージ、概念は常に個別でしか存在できないんです。

あらゆるイメージが付け加えられていない「それ」は、
逆に個別にはなれません。

常に全てです。

そして、どんなものにも変幻自在のようにみえて、
「それ」そのものは変わることが無く、
どんな影響も受けず、
常に在ります。

そして、「それ」しかなく、在るという質しかないわけなんですよね。

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