Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

すべては後付けの夢

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ただ起こっている事。
起こることは、自然現象のようなもので自然に起こり続けます。
これは、身体や心の感覚も同様です。

その感覚に後付けで観念をつくり、その観念を発展させている。
その観念は
自分の〇〇、、、
自分が〇〇、、、
といったような概念から始まります。

自分が取り除かれると、ただ起こることが起こっていることになり、
観念は、力を失います。

この後付けの観念の中でだけ、
善悪があり、
苦悩があり、
深刻さがあり、
不自由さがあります。

この自分を取り除く。
というところが、どうしたら良いんだ!!!
という問いになっているのかもしれませんね。

で、
これが取り除かれたら、苦悩から自由になれるんでしょ!

といった話になるわけでしてね。

苦悩が苦悩としてあるのは、
何かしらの起こっていることをそのままにはしておけないという思いがあるからですね。

そのままにはしておけないのは、そうあるべきじゃない何かがあるわけです。

つまり、自分にとって、そうあるべきじゃない何かがあるわけですね。

そうなってくると、
自分のために、自分を取り除こうとしちゃうんですよね。

自分を確立するために、自分を取り除くと、自分から苦悩がなくなるはず!

みたいなね。

この辺で矛盾が生まれて、次から次へと苦を取り除く探究が始まっちゃうわけです。

そして、この探究も、後付けの夢の中に現れているだけなんだとなります。

こうなると、自分のしっぽを追い続ける犬のように、
ずっとその場をくるくると回ってしまい続けてしまったりするんですね。

でも、
観念と言うのはそうやってくるくると回るモノなので、それでいいんです。

あー、これは観念なんだねー。ってね。
そやって見てみると、観念の方から、
あ、バレた?

てなもんで、観念は観念で回っていても気にならなくなるというか、
それにわざわざ自分と言う概念をくっつけて一緒に回ってるふりをするのが、
ちょっと白々しくなる。

それが深刻さがなくなってくるという感じなんですけどね。

私が回っているのではなく、
観念が観念として回ってるんです。

そこにそれを行為している自分なんてものは無いんですね。

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