Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

質問返答編パート2:一瞥体験において知識として分かることについて

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ほいっほいっほいっ!
おはようございます。
タクさんでございますよ。

今日はいただいた質問の答えの続きパート2としまして、
一瞥体験について書いていきたいと思います。

パート1を読んでいない方はこちらの記事をご参照くださいませ。

 

takuteto.hatenablog.com

 

ご質問の主旨は、
一瞥体験と「それ」って関係ないんですよー。
ってね。言われていますが、結局のところそれって一瞥体験をしてるから分かるんじゃないのん?
そんな体験がない人が「それ」を分かることってあるのん?

みたいな趣旨だったかな?と思いますので、
そのことをテーマに書いてみたいと思います。

一瞥体験って、結局のところ、ひとつの体験なんですよ。
でね、「それ」ってのは、体験を超えたところの表現なんで、全然別なんですよね。

ってね。
こんなスマートな言い方だと、納得できないこと請け合いなので、この辺を掘り下げていきましょう。

まずね、一瞥体験ってなんか特別な体験のように思ってる人多いと思うんですけど、
あらゆる体験についてはすごいも平凡も無いんですよね。

なんていうか、起こっている事全ては例外なく意味がないんです。

僕の感覚ですと、
一瞥体験と「それ」って全然関係ないんですよー。ってね
言えるのは、一瞥体験をしてるからじゃなくて、
この体験を手放してるから言えるんじゃないかな?
って思うんですよ。

逆に、おおおおー!体験した―!
ついに悟ったー!!!

てね、なってたら言えないと思うんですよね。

だから、変に強烈なそういった体験があったとしたら
逆に邪魔にしかならんと思うんですよね。

なので、全然関係ないんですよー。ってのは、
どちらかと言うと、そういう体験をした人に向けてのメッセージなんですよね。

自分が消えたということを自分というまな板の上で理解している。
みたいなね。

そういうのが一瞥体験なんとちゃうんか?って思うんです。

だから、ぶっちゃけ関係ないんですよね。

あらゆる体験や経験。そしてそれを受け取る個人(自分)。

っていう関係性がね、ホンマは無くて、
受け取る自分っていうのもひとつの体験というか、起こっている事でしかなくて、
これしかないんやんってね。
そういった見抜きが起こることが「それ」であって、

何かがわかったり、体験をしたりした先にあるものが「それ」なんじゃないんです。

わかったり体験したりってのも、その主体がないと成り立ちませんが、
ほんとはそんな主体は無く、そういった起こることだけが起こってるだけなんですよね。

主体があるから、一瞥体験もあるんですよね。

その主体のなさの見抜きが「それ」です。

ただ、ややこしいことに一瞥体験なんかでは、主体のなさを自分(主体)が理解しちゃったりするんですよね。
で、ここにハマっちゃうパターンってめっちゃ多いと思うんです。

なんか、スピ系では、こういった神秘体験、一瞥体験をなんか良い事みたいな扱いがされてたりしてね。
おまけにわかっちゃうもんだからややこしいんですよね。

で、体験の興奮が冷めた後に、なんか社会のウソさとか、そんなんがすごく気になっちゃって来たりしてね。
それがやたらと重苦しく感じたりすることがあるんですよね。

それも、一瞥体験ってのを手放せない。なまじっか体験してわかっちゃってるからややこしいというかね。

だから、関係ないんですよー。って言うんです。

だから、そういった体験は有ろうがなかろうが関係ありません。

関係ありませんが、僕らって物心ついた時からもう、自分という概念を中心に生きてきてるじゃないですか。
そのクセってものすごく強いんでね。
だから、自分がいないってなったとしてもすぐに戻ってきてしまうんですよ。

で、なんやったんや!あれは!!!
あの解放感は!!!

ってね、なったりすることは多いと思います。
だから、結構こういった体験をしてる人って多いと思うんですよね。

とくになまじっかスピ系の知識が多かったりすると、
これが悟りかー!って思っちゃったりするんでね。
余計にハマっちゃうというかね。
そういうことも起こるかもしれません。

でも、体験はただの体験に過ぎないですし、
何かが達成された後に訪れるのが「それ」なんじゃないんですよね。

「それ」ってのは、知識でとらえて分かるんじゃないんです。

そういった知識でとらえて何かが分かっていくというドラマからの卒業です。

なんていうか、そういったパッケージがただのドラマ、ストーリーでしかなく実体がなかったという見抜きです。

何かが分かったり何かを達成するとより良くなっていく。みたいな幻想には終わりがない。

まさに車輪のようなもんで、輪廻(りんね)とはうまいこと言わはるなぁ~。
って思うんですけど、
その一連のストーリーが車輪やったんやん♪ってバレてしまう。
ってことなんです。


さて、パート2の「一瞥体験において知識として分かることについて」はこの辺までにしておいて、
パート3では、起こってることと起こってないこと?嫌な感情。
みたいなことについて書いてみたいと思います。

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