Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

見るものと見られるもの

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見るものがいる時だけ、見られる何かが存在します。

そして見るものが、その何かに、興味を持った時だけ、見かけ上で何かが現実化します。

見るものが興味を持たないでいると、ただ何かが起こってるだけとなります。

そして、見るものがいなくなると、ただ在るが残ります。

「それ」とは全てを見ている観賞者ではなく、見るものさえもいない、ただ在るということなんですね。

ただ在るの中で、見るものと見られるものが分離した時に、何かが見かけ上で起こります。
そして起こることに注意を向けた時だけ、見かけで何かが現実化してるように見えるわけです。

ホント単純にそれだけのことなんですよねん。

もし、自分が何かできることがあるとすれば、見てみることだけです。
ただ、なんの感想も抱かずに見てみたとしても、それは分離の中にある観賞者にすぎないわけですが、できるのはココまでなんですよね。

あとは、この鑑賞者に留まろうとすることもせず、そのまんまにしておくだけです。

自分という分離を保とうとするりきみ。
このりきみが取れた時に、見るものもいないと気づくわけです。

ですが、このりきみが、ずーっとなくなるというわけではありません。
ただ、りきみが抜けたこの時に見抜きが起こるだけなんです。

なーんだ、単にりきんでいただけだったんだ。
このりきみを自分と定義付けていただけなんだという見抜きが起こるんです。
誰かが見抜くわけではありません。
単に明らかになるだけなんです。

この明らかさが板についてきた時、もう自分という定義づけが成り立ちにくくなるんです。

だからと言って見かけ上では、今までのパーソナリティーは、変わらず起こり続けます。

ただ単に、ヘビだと思っていたロープが、ロープだったと見抜くだけです。
ヘビのように見える何かが消えるわけではないんです。

ロープだから深刻さは無くなります。
でも、ふとした瞬間には、ヘビとちゃうんか!
といった思いが起こることもあります。

学校をとうに卒業してるのに、
うわっ!単位が足りないっ!って夢の中でビビるのに似てるかもしれませんね。
てか、そんな夢見るのは、単位が常にギリギリだった僕みたいな人だけかもしれませんが。

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