Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ダイレクトな「それ」

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聞こえる音も、
見える景色も、
感じる感触も、

どこで起きているのか?と言いますと、
これらってどこかで起こってるのではなくて、
ぜーんぶ自分の中で起きてるんですよね。

音にしろ感触にしろ、自分で感じてるわけですからね。
何かしらの音が聞こえたとしても、自身の中で音を感じているわけです。

その後で、この音は遠くで鳴ったとか、この音はガラスが割れた音だ。
とかね、いろいろと解釈が加わるわけですが、
この解釈を除いたら、
ただ、経験だけが自身の中で起こっているだけなんですよね。

そして、自身の中で起こっている。
と言いましたが、
もーっと厳密に言うと、
ただ、この経験だけがあるだけなんですよね。

自身の中でこの経験が起こっている。
みたいに思いがちですが、
この「自身の中で」っていうのも解釈でしかないわけでね。

なので、
内も外もなく、ただこの経験があるだけなんです。

でもって感覚みたいなもんはとっておくことって出来ませんよね
どこかで、コーンッって音が鳴ったとして、
お、この音はとっておこう。
というのはできないんですよね。

起こっては消えていく

所有者もおらんし、
それにいくら定義や解釈を加えても、
定義は定義でしかなく、解釈も解釈に過ぎないわけで、
実体はなく、
そのおこった経験に対して、誰かの行為なんてものもなく、
あるのはこの純粋な経験だけとなるわけです。

つまりダイレクトに経験だけがあるわけです。

例えば、
欲しい時計を手に入れたんだとしても、
あるのは手につけた感触や、
コチコチという音が経験として起こるのみなんです。

もちろん、それをとっておけるわけもありません。

キャー!素敵な景色!
目に焼き付けておかなきゃ!

ってね。
やったとしても、景色は記憶に置き換わり、
記憶の景色はその時のモノとは全くの別物となり、
その時の景色はもうとっておくことはできないんです。

これはカラダやココロの起こることでも同様で、
カラダにもココロにも起こることが感覚として経験されるだけです。

そして、経験は来ては去っていきます。
まさに波のようなもんです。

ですが在るのはこの経験だけではなく、常にここにある何かがあります。
常に離れることなくあるものです。

それが存在感のようなもの。
また、生きてるって感覚です。

「あなた生きてますか?」
と聞かれると
「うん生きてるよ。」
って答えると思うんですよ。みんな。

その大前提となる生の感覚だけは常に離れることなくあるんです。

それらが生き生きと波打って経験として起こったり消えたりしてる。

なーんか。
そんな感覚なんですよね。

今だけ、解釈や定義を横に置いておいて、
生でダイレクトなイノチに溶け込んでみる。

すると、もう「それ」しかないんだ。
って明らかになると思います。

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