Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

起こってることに感想を述べてるだけ

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「それ」とは、自分と言う概念が現れる前の、
ただ、気づいているその気づき。
経験されているただの経験です。

その後に自分と言う概念が加わり
あらゆる分別が為されるわけです。

そして、その分別が行為とみなされていて、
その行為がいつしか、気づきや経験もふくめて
概念化されているわけです。

本来の「それ」とは、ただの気づきと経験でしかありません。

これはまるで、ただ起こっていることに意味づけして
ストーリー仕立ての映画に仕立て上げて、
それを見てその都度、感想を述べていて、
その感想についてあーだこーだと反応しているのに似ています。

「それ」の現実とは、
名もなく意味のないことが起こっているだけなんです。

自分と言う概念は、意味なく起こっている事の後に概念化されているストーリーの一部なので、
自分が気づくという事は不可能なわけですね。

なので、一瞥体験という体験も、ただのストーリーでしかありません。
この体験により何かが分かるわけなんですけど、
それは、自分がないという経験を自分と言う概念上に引っ張り上げて定義しているという
ことになってしまっているんです。

なので、この一瞥体験の理解にハマっちゃうと、
自分と言う概念上でさらに自分がいないという事の理解を深めようとしてしまうという
ややこしい輪廻に巻き込まれちゃったりするんです。

 

気づきは自分のモノにはできません。
その気づきとは、ただ「それ」しかなく、
それを手に入れる自分は不在だったという気づきだからです。

気づいている誰かがいるわけでもなく、
ただ、ダイレクトに「それ」があるだけなんです。

このダイレクトさは最初、とても奇妙かつ不気味な感じに感じるかもしれません。

どうしても自分と言う手掛かりがなければ、なにも理解することが出来ず、
理解しないことには何も手にすることも出来ず、
腑に落とすことも出来ないからです。

僕らはどうしても、理解しそれをモノにする。
というクセが根強く残っています。

このクセが、何にも無さにただ在るということを
強烈に拒絶するんですね。

そして、自分と言うのはそういうもんなんです。
だから、自分を何にも無さに無理くり押し込めようとしても無理ゲーなんです。

よくね、
欲を捨て去りなさい。
分別も捨て去りなさい。
自我を手放し、
ただ、そこに在りなさい。
私は誰かを問い続けなさい。

とかね、
言われるじゃないですか。

でも、自分をそういう状態に変えようとするのではなく、

ただ、自分と言う概念を見てみるんです。
見ることによって、概念だったということが明らかになってきます。

実体のなさがバレてくるんですね。

そうすると、結果的に
自分と言う概念が現れる前である「それ」が明らかになります。

そこには
自我は無いですし、
自我がないという事は欲も分別のないわけです。

なぜなら、自我も欲も分別も自分という概念と同じものだからです。
だから、何かになろうとするのは無理なんです。

もちろん、パーソナリティーは見かけ上起こり続けます。
これをコントロールできる何者かはいません。

それについて、感想を述べることはできます。

まだまだ、概念が自分に起こってくるし、
欲も起こってくる。
あれは嫌だしこれも嫌だ!
「それ」に在れば嫌なことも消えるのか?
これは、概念なんだ!何も起こっていないんだー!
私はいないんだー!だから大丈夫なはずなんだー!でも大丈夫じゃなーい!

とかね。
感想は感想としてなんぼでも出てきますね。

ですが、それも自分と言うストーリーに対する感想であり、
それには実体がない事が明らかになるんです。

 

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