Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分らしさという名の杖

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僕らは物心ついた時から、どうも何かしらの手掛かりなしには立つことが出来なくなってしまっている。
そんな可能性があります。

物心ついた時というのは、記憶の中にある自分というイメージの最古のモノです。
そこからストーリーが始まっておるという事です。

何かしらの手がかりをもとに立つ。
ということは、
杖をもって立っているような状態です。

何もなしにただ、立っていることができずに、常に何かしらの杖なり手すりなりを持って立っている。
それに慣れ親しみすぎてしまっているんです。

もちろん、これは実際の身体の話しではなく、ココロの話しです。

常に、ココロの中に手掛かりとなる何かを持っていないと落ち着かなくなっているんですね。

そして、この杖に当たるモノ。

これがいつしか、自分らしさになってしまうんですね。

すると、他の人の杖も気になってきます。

一見豪華な杖を持ってる人がいたり、
地味だけど丈夫そうな杖を持ってる人がいたり、
やたら長い杖を持ってる人がいたり、

もう杖は古いぜ!とセグウェイにのってる人がいたりもして、、、

もちろん、この杖というのは比喩ですよ。

本屋さんに言ったら沢山ありますよね。
様々な生き方を指南する本なんかがね。

そうやって、どう生きるべきか?

自分らしさとは何なのか?
どこに自分らしさがあるのか?

この自分らしさを発揮するには今のままでいいのか?

もっと自分を磨くにはどうしたら良いのか?

と、いった悩みに対する様々な答えが本屋さんでもウェブサイト上でもあふれかえってるわけです。

それだけ、自分の杖についての関心が高いんですね。

そして、あるとき、とんでもないもんにのってる人を発見するんです。

それは、杖どころじゃなく、筋斗雲にのって自由自在に動き回っとる爺さんです。

なんやあのじじい!筋斗雲のってるやんけ!
すげーな!どうやったらあんなもんに乗れるんや!!

てなもんです。

これが、ま、悟り(筋斗雲)みたいなもんなんですね。

杖のバージョンアップに余念がない人から見れば、
自由自在で完璧な感じに見えるじーさんはまるで、筋斗雲のようなもんに乗ってるように
見えるんです。

で、どーやったらそんな完璧な自分を手に入れられるんだろう?
と悟りに興味を持ち始めるんです。

じーさんにしたら、そんな自由自在な筋斗雲に乗ってるなんて自覚もなく、
ただ普通に立ってるだけです。

杖という自分らしさになんら拘束されていない。
それだけです。

だから
じーさんは、
「ただ、なんも持たずに立てばええねんで。」

って言います。

でも、人は
は???杖無しに立つ???
そんなんあり得へんやろ!

だって、杖こそが自分自身なわけだし、
これを無くすわけにはいかんだろ?

って思うわけです。

じーさんは言います。

その杖も、筋斗雲に見えるこれも
あなた自身じゃないよ。

あなたは、そのまんまで立てるんだ。
どうしてそんな杖なんかにこだわるのかね?

ってね。

悟りなんてものがないし、じいさん自身、ただ単純に立ってるだけ。
でも、周りから見ると、悟ったじいさん!
のように見えている。

筋斗雲に乗ってるように見えている。

じいさんは、教えてくれと言われるから、

いや、ただ普通に立てばええだけやで。
その杖を頼りにしとるから普通に立ててないだけやで。

と言うんですが、

聞いてる人は、
どうしても自分の持つこの杖をバージョンアップしたら、
じいさんのような自分らしさを得ることが出来るという立場を崩そうとしない。

なんか、こんなやり取りが良く起こってるように思ったりします。


なんだか、ややこしい例え話になっちゃいましたが、
今日はこの辺で~♪

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