Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私はいないと、私は在ると、服についたカレーの話

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いまここで、リラックスする。
「それ」だけが在る。

私は在るに在りなさい。

とか、そういう事聞くと、
どうしても自分がそうしようと思っちゃいますよねー。

でも、
自分が常にそれに在るようになる。
みたいなことって、単なるこだわりみたいなもんなんですよね。

で、んなこだわりなんてのもいらんのですよね。

また、良くありがちなのが、
あれやこれやと思考がわいて来たり、感情がわいてきてたりしてですね、

あっ!また思考や感情に同一化してる!

ってね。気づいて、落ち込んだりね。

これもねー。自分に思考や感情が起こらないようになるってことじゃないので、
落ち込む必要もないんですけどね。

自分とかワタシってのは、ホントないんですよね。

概念でしかなく実体がない。

これって、どういうものなのか?と言いますと、

ワタシとか自分という概念は、最初は無かったんですけど、
誰かに習って教わったんですね。

だからあるように思っちゃってるんです。

無いのにね。

で、この存在っていうか、感覚とか思考とか。

そういうのもワタシや自分だと思っちゃってるんです。

なんていうか、ワタシや自分という概念があるから、
どうも、そのワタシが感情や思考を所有している。

みたいなね。
そんな感覚も植え付けられちゃったりしているわけです。


んー。
これを何とか説明しようとすると、、、

例えばですね。

「SOS」ってあるじゃないですか。

助けてという意味でつかわれてたりする記号ですよね。

これってね、じつは助けてという意味じゃないんですよね。
単にモールス信号で打ちやすい言葉ってだけで、
この「SOS」には意味は無いんですよ。

たんに打ちやすく聞き取りやすいモールス信号ってだけなんですよね。

てね。
それがなんやねんって思うじゃないですか。

他にはね。

野球選手のイチローっているじゃないですか。

あの人、実は次男なんやで!

とかね。

へー。
それがどうしたん?
って思いますよね。

こういうのと同じなんですよ。
「ワタシ」とか「自分」っていう概念も。

たんなる教えられた概念でしかないんですよ。

だから、実体はないんです。

単なるルールみたいなもんです。
オママゴトの役割みたいなもんでしかないんですよね。

身体とか感情とかにいろんなことが起こるじゃないですか。

ま、身体とか感情ってのも教わった概念でしかないので、
ホントは、ただ単に色々と起こってるじゃないですか。

その単なる反応に対してね、身体や!とか感情や!とか分別してたりするんですけどね。
それと一緒に「ワタシに」とか「ワタシの」とかも付け加えてるだけなんです。

これがもう、板につきすぎていて、習慣化されすぎていて、
無意識的にそうしちゃったりしてるんですね。

よく、タクさんはもう自分はいないんですか?ってね。
聞かれるんですけど、

そんなん無いんですよ。
誰にだって。

そりゃ、習慣的に起こってくることもありますけどね。
でも、もうそのウソはバレてしもてるんですよ。

自分がないとなるとどんな感じになるんですか?
ってね、思ったりすることもあると思いますけど、
どうにもならないですけど、深刻さは無くなってきてます。

これって、どんな感じかと言いますとね。

例えば昼にカレーを食べたとするじゃないですか。

で、夕方ごろにふと、服を見たらなんか茶色いものが付いてる。

「うわっ!ウ〇コついとるんとちゃうんか!!!」

って一瞬ビックリするじゃないですか。
でもよくよく観察してみたら、

あ、これ昼に食べたカレーやわ。
ウ〇コと違ったー。ってね。

一旦、ウ〇コじゃないことはもう明らかになったわけです。

夜になって、また同じところを見て、
「うわっ!ウ〇コついとるんとちゃうんか!!!」
ってね。

ま、思ったとしても、もう違うことはわかってるじゃないですか。

なので、もうあんまりドキってしないんですよね。

っていうのと似てます。

自分という深刻さの重たい感じが
ふと起こってくることもあったとしても、
もう、その自分というウソさはバレてしまってるんですね。

ほら、
赤ちゃんのころって、
ワタシは〇〇とか、自分の〇〇とか、

そんなん無かったじゃないですか。

かといって、嫌だったら泣いたり、楽しかったら笑ったり、
チョンチョンとつつかれたら何か感じたりしてるわけですよね。

別に自分が無かろうが、感情とか感覚はあるわけですよ。

その後で、あなたはタクくんよー。私はお母さんよー。
ってね、教えられるから、ワタシみたいなものがあるのか?と誤解して、
このつつかれたり泣いたり笑ったりしているのはワタシなのか。
ってね、思い込んだりしていただけで、

自分とかワタシという概念があろうがなかろうが、
笑ったり泣いたりといったことは変わらないわけですよ。

自分という概念が、それらにあらゆる物語を付け加えていって、
付け加えれば付け加えるほど、
なんにもない「それ」に制限を加えているだけでね。

そして、この制限が増えてくると、人は苦しみを感じだすんです。

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