いまここで、あるものだけがあるだけ。
ってのが、ホントのところですよね。
この明らかさが明晰です。
ただの当り前だということですね。
私は誰なのか?という問いも、
どう生きるべきなのか?という問いも、
ありとあらゆる全ての問いも、
ぜーんぶ記号、音としていまあるだけなんです。
「それ」や明らかさは、
レッテルを何層も重ねた先にあるのではなくレッテルを取り払った何にもなさにあるんですね。
レッテルを重ねるというのは、理解に理解を重ねて答えを探し求める行為のことです。
その先には明らかさも「それ」もないんですね。
たまにこういう話を聞いてる間にわかった!と思うことがあるんじゃないかな?
って思います。
わおっ!の瞬間です。
でもその瞬間に何がわかったんだろうと確かめたくなり、
またレッテルの確認が始まっちゃうパターンも多いのではないでしょうか?
わかった瞬間は単なるシンプルな何にもなさだったのにね。
さて、この明らかさの正体。
なぜ明らかになるのかというと何にもなさはこの上なくシンプルだからなんです。
何かが明らかになるのではないんですよね。
何もないから明らかなんです。
何もないから、これ以上のシンプルさはないんです。
だから明らかすぎるほど明らかなんですね。
何がわかったんだろうと確認しちゃうとシンプルさは失われます。
なので明らかさも同時にどっか行っちゃうんです。
レッテルを貼ろうが貼るまいが目の前のいまに違いはありません。
そして、そのまんまにしておれば「それ」はただそのまんまとして在るわけなんですけど、
そうすると、どうしてもなんか手持ち無沙汰に感じたりするんですよね。
だから、やっぱり何かしておきたくなる。
その衝動がまさに自我さんの動きであって、
そういった動きもただ起こっているわけなんですね。
それとあなたは関係ないんですよね。
っていうか、行為者がいるわけじゃなくただそう起こっておるだけなんですよね。
空に浮かぶ雲は、雲自身で雲さんの意思で浮かんでいるわけじゃなく、
ただ浮かんでいるだけですよね。
それと同様に、自我さんは自我さんとしてただ動いているだけなんですね。
で、実際のところは、雲というなにかもないし、自我というなにかもないわけなんです。