Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考との同一化って当たり前なんです

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「それ」とは自由です。
解放とは、不自由からの解放なんですよね。

でもこれって、自分が自由になるのではなく、自分から自由になる。
ということなんです。

今を受け入れられるようになる。
といったことともちょっと違います。
どちらかというと、
受け入れられる自分という概念からの自由です。

よくね、ありがちなことでね。

瞑想とか、修行とか、ワークとかをずっとやってきて、
ある程度の不安とか嫌な思いもずいぶん軽くなってきて、
ちょっとした嫌なことなんかには振り回されなくなってきた。

みたいな時に、

ふと、また、
自分の思考に巻き込まれてることに気づいたりしてね。

あんだけ色々とやってきたのに、まだ自分は思考と同一化してる。

まったくもーう。
何だかなー。。。。
って思ったりすることがあると思うんですよね。

でもこれって、当たり前なんですよ。

何が当たり前かというと、自分が思考と同一化しちゃうのは当たり前だということです。

というのはね、

自分というのが探求そのもの。
そして、探求とは思考のことだからなんです。

ん?
どゆこと??

っていいますとね。

数式で書いてみるとすると、

思考=自分=探求

ということです。

これらのことって、言葉は違うけど、全部同じ働きを示しています。

そしてこれらの働きには実体はないんですね。

なので、自分が思考との同一化から逃れようとするのは、
ちょっと無理なんですよね。

だって、自分=思考。
つまり、自分とは思考のことだからです。
さいしょっから同一のもんなんですね。

もっと言うと、ただの思考に自分という概念が付け加えられちゃってるんですけどね。

なので、思考の中に自分という概念があるんです。
思考の中にいる自分が、思考と同一化しないようにすることなんてできないんですよね。

だって、思考の一つの要素が自分なんだからね。

そして、この自分という概念が探求を求めたりするんです。

自分が探求をしている限り、この探求に終着点はありません。

探求の終わりは、この自分からの解放なんです。

解放っていうのは、ほっておくということです。

自分をほっておくんです。

ほっておくというのは、そのまんまにしておくということです。

ただ、観るんです。
見て、その原因を探ろうとするんじゃなくて、
ただ、観る。

そして、ほっておいてみる。

自分や思考を観察し、
それを詳しく分析するのではありません。
ただ、そのまんまにしておいて、

ただ在る。
ということです。

ただ在る。

瞑想したり修行したりするのではなく、
ただ在る。

それが、そのまんまにしておくということなんです。

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