Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

物質視点と経験(気づき)視点

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生まれてもいないし、死もない。
あるのは「それ」だけ。

魂のようなものも存在しない。

うん。

なんとなくわかった。

けど、例えば人が亡くなる時、
それまでは動いていた人が、動かなくなるという事は、
身体の中からやっぱり魂のような、何かしらのモノが失われたからじゃないのん?

???

やっぱりわかんないぞ!

身体の死は在るのかもしれないけど、
亡くなった直後って身体は身体で死の一瞬前と死の直後ってそんなに変わらないわけで、
それなのに、まるで灯が消えたかのように身体から生命が消え失せてしまっている。
みたいな。

それなら、やはり、魂のような、生気のような、個別に宿る命のような。
そういったものってあるんじゃないのか???

例えばそんな疑問が出てくると思うんですよね。

魂とかそういうのって、そういう疑問に答えるためにこしらえられたひとつの概念なんだと思うんですけど、
こういった疑問の根底には、物質視点というものがあると思うんですよ。

まず、モノ、物質ありき。という考え方。信念のようなものですね。

それがあるから、身体に命が宿ってるみたいな概念も出てくるわけでしてね。

そして、この物質視点があるから、全ては限定されていて、分離されている。
みたいな概念も浸透しておると思うんですよね。

そして、非二元のような話を聞いたとして、なんとなくわかったような気になっていても、
根底にこの物質視点があると、疑問は絶えないんですよね。

あの場合はどうなるんだろ?
でも、この場合は例外なんだろうか??

みたいな感じでね。

全部、分かっておきたくなるんですよね。
しかも、物質視点で矛盾なく理解しておきたいと思ったりしちゃうんです。

でも、物質という認識って、認識の中でも、川下(かわしも)の認識なんですよね。

川下の認識ってなんやねんといいますと、
認識という概念の中でも、ずいぶん後の方に付け加えられるレッテルだという意味です。

認識って、実際にあるものだと思いがちですが、
あらゆる認識ってのもレッテルのようなものなんです。

じゃ、認識の前には何があるか?といいますと、

経験(気づき)があるんです。

この経験(気づき)に説明を加えられたもの。
この説明書きが認識なわけです。

そして、この認識に認識を重ねて、ストーリーが展開されるわけです。

ホントに在るのは、この経験(気づき)だけなんです。

ココに立ち戻るのが、経験(気づき)視点です。

この経験(気づき)視点に在り続けることが、在るに留まるという事です。

物質が最初にあるのではなく、その前には、経験(気づき)があるわけです。

そして、その経験(気づき)に対して、それを見ている誰かがいる。といった認識が起こります。
いわゆる観照意識みたいなものですが、
この観照意識もレッテルのひとつなんです。

気づき

観照意識

自分という認識

自分の身体(物質)という認識

とまあ、一例ですけど、こんなふうに認識が進んでいくわけです。

物質視点という認識はこの後に続いていきます。
でもって、様々なストーリーが展開されるわけですね。

でも、最初にあるのは物質ではなく気づきなんです。

ただ単なる気づきです。

そして、在るのはその気づきだけなんです。

あらゆるストーリーも「それ」の中で展開されているように見えているだけなんですね。

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