おはようございます。
タクさんです。
最近は「それ」と言ってたことが多いので、きょうは「これ」と言ってみたいと思います。(笑)
「それ」とか「これ」とか「悟り」とか「非二元」とか、
この辺の単語って言葉にできないものをあえて表現しているだけなんで、
あまり、言い方を共通化させると、なんかどこかにあるモノなんじゃないか?
みたいな誤解を植え付けちゃったりすることがあるんですよね。
実際には、どこかにある何かじゃないんです。
なので、たまには言い方を変えるのも良いんじゃないかと。
ま、僕が適当だということなんですけどね。
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「これ」って言うのは、完全な過去との断絶なんですよね。
自分というのは、完全に過去と断絶されているんです。
一瞬前の自分はもう完全にないんです。
繋がっているように見えているのが幻想なんですよね。
すべて記憶の中のイメージなんです。
そういえば、鏡の法則っていうのがあるじゃないですか。
あなたの見てる世界はあなたの内面が現れている。
みたいな感じでしたっけ?
起こってることはあなたの内面を表してる。
ってね。
スピ系でも、
あなたが愛を放射したら、愛の世界になる。
みたいな感じのことも言われてたりします。
これもね、鏡とかそんなもんもなくてですね。
目の前の世界を見ている誰か?ってのもいなくて、
「これ」しかないんですよね。
起こっているのなら起こっていることだけしかないというかね。
それを体験してるとか、感じているとか
そういうのってないんですよね。ホントのところは。
起こっているように、脳内変換してるだけと言いますか。
ホント「これ」しかないわけで。
起こってもいないんです。
自我ちゃんというのも概念でしかなく、最初っからないんです。
自分というのも同様に概念なんです。
そして、「これ」って自分にとっては、
ホント最悪なところです。
自分にとっては、「これ」とは安心や至福とは正反対のところに感じられるんです。
なんでかと言いますと、
「これ」とは完全な未知であり、その未知の中に在るとは、
完全な無知になるということだからです。
知ること。
既知こそが自分にとっては安心の材料になると
「ワタシ」は信じ込んでいます。
そしてあらゆる安心材料を豊富に、潤沢に、完全に蓄えられることで、
安心を持続でき、それが幸せなんだと勘違いが起こっています。
だから、無知になるなんてとんでもないことなんです。
ですが、
知ってるとか知らないとか、
そういった判断もすべて、
実は無知の中に在るんです。
無知の中に既知が起こっているんです。