Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

説明最強説を疑ってみる

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「なんにもないそれ」は、もう「なんにもない」んです。
じゃ、自分が何にもないを知ればええんやな!といいますと、
ちょっとそうでもなくて、
自分が「なんにもない」になるということでもなく、もうすでに「なんにもない」んですよね。

それがすべてなんです。

でもこれじゃ、あまりにも説明になってませんね。

こういうことって、

なぜならそれは言葉では説明できないんです!

みたいなかんじで、終わらせてしまわれがちです。

で、それに気づいている聖者さんなり偉い坊さんなりについて修行したりしたらわかるやろ
ってな方法がとられていたりします。

ま、それはそれでいいんですが、
ここでは、
なんでそれは説明できないのか?
について書いてみたいと思います。

■■■


これってね、
説明最強説!みたいなもんが蔓延してるからなんじゃなかろうか?
と思うんですよね。

この説明最強説があまりにも板につきすぎて、
もうそんな意識もないくらいに
この説が浸透しつくしているっていうね。

説明最強説ってなんやねんといいますと、
全てのことは言葉で説明できるはず!という
なんていうか、ある種の宗教みたいなもんです。

このね、説明最強説ってのを、一回疑ってみると良いと思うんですよ。

あらゆるモノや起こること、現象に名前と言うレッテルを貼り付け、
そのレッテルを組み合わせて説明がなされるわけなんですけどね。

このシステム自体、このまるごとが、

もしかしたら絶対ではないのではないか?
と疑ってみるんです。

それを疑ってみたら、徐々に見えてくるのが、
目の前の世界って、このレッテルと説明のなかに閉じ込めていたけど、
ホントの世界ってそういうもんじゃなかった!という気づきなんです。

そういうことに気づき始めるとですね。
こういった話は、
別に、何らかの特殊な能力をもった聖者さんだけがわかってるみたいな
神秘的な話じゃなくて、
伝授みたいなもんで授けられるような代物でも無くて、
何かしらの修行を重ねた末に訪れるようなものでもなく、

ただただ、当たり前の話でしかないんとちゃうんか?

ってことが分かってくるんですよね。

高い金が必要なのでもなく、
長い修行が必要なのでもなく、
何かしらの発想の転換をすると言ったことでもなく、
価値ある聖者が授けるものでもなく、

すべてのそういった考えのベースにある説明最強説が、絶対ではなかっただけ。
ということなんです。

説明最強説が絶対ではないとなると、
言葉も絶対ではなくなります。
そうなるとその言葉から生まれる考えも絶対ではなくなります。

となると、「私がいる」という概念も絶対ではなくなり、
「私はいません」という言葉も絶対ではなくなります。

そもそも、絶対という定義すら、どこかに消えてなくなります。
何が正しくて、何が間違っているのか?
みたいな定義も絶対ではなくなります。

だってそもそも説明される必要性が崩れちゃったわけですからね。

そうなると残るモノってなんでしょう?
ってことなんです。

そして、
この残るモノを定義する必要も無いんですよね。

そうなると、「それしかない」となるわけです。

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