頭の中のおしゃべり、思考。
それってぜーんぶ物語やーん!
って気づくと、
目の前に、そのすべての判断、思考が取り除かれたそのまんまの物が現れます。
そのそのまんまが「それ」です。
なぜ「それ」といっているのかと言いますと、判断がないものなので名付けられないものだからです。
悟りといっても
ワンネスといっても
ノンデュアルといっても
宇宙といっても
神といっても
なんでも良いんですけど、これらの言葉にはすでに個々人のイメージがついちゃっているのでそのイメージに伴った判断が起こってしまったりするのを防ぐ意味で
今回は「それ」と言っておきます。
すべての判断が落ちた時に残るものが「それ」です。
じゃあ、何かの別世界が広がるのか?といったらそうではなく、何にも変わりません。
判断は起こり続けますが、それをしている誰かはいないということに気づくんです。
その判断に意味は無く、全ての中でただ起こっているわけですね。
人は普段、頭の中で判断されたものを世界だ、ワタシだ!
と認識してしまうことに慣れきってしまっているんです。そしてその世界を当たり前だと認識してしまうんです。
で、自分の世界は他の人も同じ世界だとなんとなーくそう思ったりしてるんです。
そういった判断のない大元が「それ」なんですね。
そして、それらがタダの判断なんだという気づきが一瞥と呼ばれているものなんです。
ですが、こういった一瞥という体験で、「それ」に気づいたとしても、
また、以前の判断して理解するというクセが残っている場合がほとんどです。
そして、知らず知らずのうちに、この自我のパターンに戻った時、
「ワタシ」が気づいた!
「ワタシ」が悟った!
と言った認識を自分の中に持ち込んでしまう場合もよくあるんですよね。
気づきの中ではすべては完璧ですが、判断の中にある自分という自我意識はすべては完璧じゃなく、正しいと間違い。べきとべきじゃないがしっかりとあります。
ここで、その一瞥した体験を持っているがための矛盾を抱え込んでしまう場合が多いんです。
また、判断の中で起こる、正しいと誤り。
この誤りという負の部分が、怒りや不安、恐れ、罪悪感や劣等感といったような形で心の奥に残っています。
これが抑圧されたエネルギーとして現れてきて、その抑圧が大きければ大きいほどそれに巻き込まれたりするんです。
多かれ少なかれ、人はこの抑圧されたエネルギーを溜め込んでいます。
判断が、正しいとか誤りという概念を作り、
それが〜べき、〜べきではないという指針を作り、
人と比べて自分は正しいとか間違っているとかいう、プライドや劣等感を作ったり、
正しくない自分に対する罪悪感を作ったり、
正しくない他人への怒りを作ったり、
また、怒ってはいけないといった抑圧を作ったりと、
抑圧が抑圧を産んだりもするわけです。
一瞥の体験や、「それ」に気づいた後に、
自我の思考のクセがまだ残っていてそこに戻った時、
それがただ単なる「思考のクセ」である場合は、
あ、また思考のクセが起こっているんだなーって、気づきやすいのですが、
自分の心の奥にしまいこんでる抑圧されたエネルギーが出てきている場合は、その抑圧されたものに思考を付け加えて出てきたりもするので、そのエネルギー自体に気づきにくい場合があります。
そして知らず知らずのうちに、すっかりそれに巻き込まれてしまって、苦しい思いをすることも多いんですよね。
こういった抑圧は、怒りとか不安とか劣等感とか罪悪感みたいな、
いわゆるイヤーな重たい感情という形で現れます。
こういった、嫌な感じの感覚については、
自我ちゃんは、よくないものと判断しちゃうので、手段を選ばず、どうにか抑えようとします。
またこの感情を隠すためにありとあらゆる思考を生み出して隠しちゃう場合もあります。
弾幕みたいなもんですね。
そうやって隠せば隠すほど、また心の奥にさらに押さえ込まれるような形になっちゃうんです。
僕はこのブログでは、思考や感情については
そのまんまにしておく。
と書いていますが、
この抑圧されたエネルギーに対しても、そのまんまにしておくのが良いと思っています。
このそのまんまにしておくというのは、どういうことかというと、
そのエネルギーは良いとか悪いといったような判断できるものではないんだということをまず知り、
ほっておくのではなく、対処しようとせずにその中に入っていき、
そこでただ観ることなんです。
自我ちゃんはすべてを分離し判断するエネルギーです。
なので、抑圧されたエネルギーに対して、これはあかんやつや!抑え込もう、
と、なんとかしようとしだすんです。
そうなると摩擦が起きて、苦が生じるんです。
苦の原因は、不安とか怒りとかの感情の方にあるのではなく、
それを抑え込もうとすることで起こる反発による摩擦が原因となっているんです。
なので、抑え込もうとせず、そのまんまにして、観てあげるんです。
怒りは悪くないんです。
罪悪感も悪くないんです。
劣等感も悪いモノではありません。
そもそも、あなたは今のままのあなたで完璧なんです。
等身大のあなたこそ、完全で完璧です。
なので、それはただ、そういった判断が起こっているんだということも含めて観てみるんです。
これって、結構怖くて勇気がいるんですよね。
でもそうやって、何度もそのまんまに観てあげることによって、その抑圧されたエネルギーは徐々に力を失っていきます。
ある程度なくなっていくと、なんか怒りとか不安とかが出てきても、ただそれが起こっているだけと気づくようになります。
全然それがあってもいいようになります。
そして、頭の中で起こる判断のクセにも巻き込まれにくくなっていくんです。
これって、怒りとかがなくなるということではなく、あらゆることは起こってきては消えていくわけですが、それは悪いことじゃないという事なんですよね。
元々意味のないものに判断を加えて、意味づけをして、
その意味づけから、良いとか悪いを生み出し、どちらかに決めつけている。
そして、より良い方を目指すものだから、
悪いモノを抑え込もうとして、抵抗を生み出している。
という仕組みを見破っちゃうんですね。
抑え込みがなければ、怒りとか劣等感とか不安みたいな感情も、
嫌な重さもなく、ただのそういう表れでしかなくなります。
ただ、起こっているだけとなるんです。
そうして、改めて、「それ」に戻ってきます。
あ、なーんだと、
全部物語だったんだと改めて知るわけなんですけど、
そこに最初の時のような発見の驚きってのもなくなってきて、
何にもない「それ」こそが当たり前ですやん。
ってなるんです。
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というわけで、抑圧されたエネルギーと自我からの目覚めと題して、3回にわたってかいてみましたが、今回で一旦締めとさせていただきます。
でも、このあたりのこと、
特に、カルマちゃんこと抑圧されたエネルギーについては、
僕らが引っかかるあらゆる誤解の元、
そして、あらゆる苦そのものでもあるので、
また日を改めて書いてみたいと思っています。
それでは、また明日!
ごきげんよー!