Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

当たり前の「それ」の立ち位置について

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どんなに体験を繰り返して、
ああ、ホンマになんにもなかったんやぁ~。
ホント自分の一人相撲やったんやなぁ~。

って感じても、結構しつこく自分という感覚は戻ってくるもんです。

お釈迦さんが、気を付けておれ!とことあるごとに弟子に言ったそうですが、
これも、その辺のことだと思います。

自分という分離が表れてるんだなぁー。って気づいているだけで、
自我さんは、
てへへ、バレたか。。。
てなもんで、いなくなってくれるんですが、

また、シラーっとこっそり戻ってきよるんですね。

ニサルガダッタ・マハラジという人は
私は師匠に言われた通り、常に私は在るに居続けただけだ。
って言っています。

この私は在るというのは、分離に気づいている状態です。

いわゆる気づきの状態ですね。

気づきの状態というのは「それ」とか「悟り」と混同されがちですが、
ちょっと違って、まだ分離の中にあるわけなんですが、

そこに居続けることによって、分離の力がどんどん弱ってくるんですよね。
知らんまに。

でも、自分さんは、ホントにこっそり戻ってくるもんですから、
「それ」に在る。と思ってても、
あれれれー。今自分は「それ」にあるよねぇ???
って思った時点ですでに自分さんが戻ってきてて同化してたりするんですよね。

そして気づかない間に、「それ」の感覚を自我のまな板の上に持ってきたりするんです。

全ては完璧なんだから、この嫌な感情も完璧なはずだ!
とか、
本当は、スピリチュアルの修行なんて関係ないから、修行をしているあの人は間違ってる!
とか、

そういう「それ」の体験を自我上に持ってきたがゆえに起こる考えに同化してしまうんです。

さてさて、
ここで、さらにややこしいパラドックスをご説明します。

上記のような考えは、自分とは別物なんです。

同化することで、自我さんになるんです。

考えが起こってるのは、勝手に起こってるんです。
ちゃんと気づいていたり、自分というのは概念でしかないよねーってのが、
板についていたら(?ちょっと表現が変ですけど)、

ふーん。そういう考えが起こってるのねーってなもので、
それでも普通に、文句言ってる行為が起こってたりするんですけど、
やっぱりそこには自分はいないんです。

「それ」に在る人、つまり悟った人は文句言ったり考えたりするはずがない。
ってのも、自我の作った幻想の物語なんです。

そ ん な ひ と は い な い ん で す。

もうね、ホントーに、自分なんてもんは存在してないんですよねー。

誤解も甚だしいんです。

けど、この自分という思い込みって、結構しつこいんですよー。
だから、いつまでたっても、あのエロイ先生は本物だ!とか偽物だ!とか
あの人は悟ってるとか悟ってないとか
自分は今、悟っているのか?とか悟ってないとか?
もう少しのところにいるんじゃないか?だとか?

そんな、無意味な考えに同化してぐるぐるとしてしまったりするんですよねー。

ホントに誰もいてませんからねー。

そして、自分はいつかそれを手に入れるってのも無理ですからねー。

それでいて、ホントに特別な人とかもおらんのですよ。
マジで。
ありえへんのです。

ダイヤモンドも石ころも、ネコから見たら同じ石ころなんです。
ネコはダイヤモンドに特別な思考をくっつけてないからです。

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