Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自由意志はあるのかないのか論

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えーなになに
今日の定食は、焼き魚かー。
うーん、、、他にはー?
おっ!鳥照り焼きもあんのか。
これおいしそーやん。よしゃっ!これにしよっ!

■■■

はいっ!ご機嫌よう!
タクさんです。

冒頭はとある昼休みの僕の様子から始めさせていただきました。

今日は自由意志について書いてみよっかなーと思います。

魚にしよーか、鶏肉にしよか〜。
ってのは、あたかも選択肢があって、自由意志で選択しているように見えますよね。
この感覚が、どうしても自由意志はあるという根拠になっているわけです。
では、ホントに自由意志はあるのでしょうか?

そしてもし、自由意志が無いとしたら、魂のブループリントといったものが存在していて、生まれる前に運命を決定してきたのでしょうか?

というわけで、まずは意思があるのか無いのか?を見ていきたいと思います。

以前に捨てる自分なんてどこにも無いよね?
って記事を書きましたが、

takuteto.hatenablog.com

自由意志があるのだとしたら、選択する誰かがいなきゃなりません。
この誰かとは、自分ということになるんですが、この自分は、どこにいるのでしょうか?

身体を指差して、これが自分や!
と言いたくなりますよね。
じゃあ、その身体がもし2つに分かれたら、
どっちが自分なんでしょう?
目の前の鳥照り焼き。
この鳥照り焼きは、あなたではありませんがそれを食べたら?
それはあなたになるのでしょうか?

どの辺は深い洞察をしてみる必要があるかもしれません。
あなたの身体は流動的な流れの中の一部なんです。
川の流れの一部をこれが私だ!
と言っているのと変わりありません。
流れは常に流れ、その部分は常に新しく生まれ変わりますが、なぜかその部分を自分だとしているに過ぎ無いのです。

では身体では無いとして、
いやいや、いるから選択してるねん!
いなかったら選択できてへんやん!
って思うかもしれませんね。

つまり、自分はどこにいるのか?
については、さし示すことができないけど、選択したり行為があるから自分はいると思っているということです。

ではホントに誰かがいて何かを選択しているのでしょうか?

よく洞察してみてください。
ホントは、あっ!照り焼きうまそう!食べたいっ!
っていう感情があるだけなのではないでしょうか?
さし示すこともできない、捨てることもできない自分はどこにあるのでしょうか?

もしかしたら、照り焼きうまそう!って思考と同列に、自分がいますねん!っていう思考があるだけなのではないでしょうか?

あらゆる思考も、あらゆる感情も、そしてその思考や感情を結びつけている記憶も、そして自分という感覚も、
それぞれが同列に、単純に、今、ここで、単に現れているだけなのではないでしょうか?

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