Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「それ」を見失う原因は思考じゃないんだけどね。

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「それ」が見失わさせるのは、思考や感情。
特に不安や、怒り、悲しみのようなものが原因だと誤解をしてしまう時があります。

それらをカルマと呼び、そのカルマが解放されていないことが、「それ」を見失う原因となっている。
といったような誤解です。

その誤解があると、頭の中で思考のおしゃべりが起こっている時、ああ、また思考が起こっている。
この思考が起こらなくなるにはどうすればいいんだろう?
と、さらなる「どうすれば?」という思考を付け加えてしまったりするんです。

私はいません。
思考は幻想です。
行為者はいません。

と言ってる人って、そういった思考が起こらないんだろうなぁ。。。
みたいな想像をしてしまったりもするんです。
だから自分もそういった状態になりたいなぁ。
って思っちゃったりするんです。

そして、そういった状態が「悟り」なんだと無意識に定義してしまったりするんですよね。

それはもちろん大きな誤解です。
「悟り」なんてものはありません。

また、思考や感情やカルマと呼ばれているようなものが、「それ」を見失う原因のように見えてしまいますが、それもちょっと違います。

そうやって見ているものも一つの思考です。

思考も感情も、ただ単に起こります。
それが自分に起こっている。
また、自分が考えたり思考をしている。

その勘違いに似た信念があるので、現れる思考や感情にとらわれてしまってるだけなんです。

窓の外に吹いている風と、思考や感情はなんら変わりはないんです。
目の前にあるコップとなんら変わりがないんです。

自分という感覚が、外に吹く風は取るに足らないことで、心に起こる思考や感情は大事な自分事だと分けているんですね。

これが分離感です。

この分離感自身が、自身の分離ゆえに「たりない」を生み出し、たりないを埋めるために探求を始めるわけですね。

思考が来たから
それを止めようとするのは、
風が吹くたび、
おー!風がふいたぞー!と大騒ぎをして、壁を作ったり何やかやしてみたりして、風が止むと、
おお、風がやんだ!
静寂だわ。
と安心するようなものです。

でも風はただ吹く時にふいて、止む時にやんだだけなんです。

思考が外に吹く風とおなじようなものだから取るに足らないものということではありません。

それは分離感があるから、思考が大事で風が取るに足らないものとしているからそうおもうのであって、
すべてはいま、めのまえにありそこに差はなくわかれてもいないんです。
それがそんざいとして、いまも目の前にドンっとあるんです。

コップのように見えるものとして、椅子のように見えるものとして、
雨が降っているように見える現象として、自分のように見える身体として、
一連の流れのように現れているんです。
流れは分けられるはずもなく、「それ」が全部であって「それ」しかないわけです。

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