はい。
おはようございやす!
たとえ話がわかりにくいと定評のあるタクさんです。
今日は手始めに「それ」をたとえ話で例えてやろうかな?と思いますが、
いつもこのたとえ話がめちゃくちゃわかりにくくなるんですよね。
でも、めげずにやってみたいと思います。
いきます。
・・・
さて、
例えば、隣を歩いてるおっさんがいるとするじゃないですか?
そのおっさんがやらしいことを考えていようが、
真面目な政治問題を考えていようが、
世界平和を考えていようが、
今日の晩飯について考えていようが、
歩いてるのには、変わりないじゃないですか?
見てるぶんには、何を考えていようが、ただおっさんが歩いているだけですよねぇ?
この隣のおっさんを見てるあなた。
そのあなたが「それ」で、「それ」の中で探求をしておる「自分という感覚」それがおっさんなんです。
・・・・・
・・・・
・・・
・・
・
ほらね?
わかりにくいでしょ?
何が言いたかったかと言いますとですね。
人って、普通は、自分という感覚って、もう絶対的だと思ってるんですよね。
ものすごくリアリティーに溢れているというか。
これって、思考なんですけどね。
この思考ってのは、実は、なんの実態もないんですよね。
その実態のなさは、隣のおっさんの考え事と同じようなものなんですよ。
ということです。
ま、ええか。
忘れてください。
じゃ、本題入りましょか。
いきます。
・・・
よく、この自分からの解放というのは、
何かをした後に起こるものではない。
準備ができていたら自然に起こる。
っていうじゃないですか。
これ本当にそうなんですけどね。
じゃあ、この準備ってのはどういう準備やねん?
って思いますよね。
瞑想の先生は、それは十分な瞑想だと言いますし、
スピの先生は、覚醒した覚者様のオーラを身近に感じ共鳴すること。
つまり、先生である私のお話会に来なさい!
みたいなことをいうわけですが、
この準備って、そういうことじゃないんですよ。
とあるえらい聖者さんは、
私は在る。この私は在るにあり続けなさい。
みたいなことを言ってます。
うろ覚えですけど。。。
この私は在る。っていうのは、どういうのか?と言いますと、
何ていうか、当たり前中の当たり前である存在のことを指し示しています。
存在というのは、あなたにどんなことが起こっていようが、
子供の頃からずっとある、気づいている意識みたいなもんです。
気づいている意識っていうと大げさですが、
あなたは、今、この文章を読んでるじゃないですか?
この読んでるということを認識しているわけですから、
その認識があるわけですよね?
そのあなたはその認識の中に自分という感覚があって、
その自分という感覚が出てくる前の、ただ生きている。
ただ見ている。
これ。
画面を見ている。この画面。
この画面という認識の前にある当たり前の土台。
それが「それ」な訳です。
そして「それ」があるからそこを元にあらゆる物語を作り出しているわけなんですけど、
この物語を作ろうとする衝動。これが分離の始まりみたいなものです。
そして、この衝動は、何かを埋めたい。みたいな感覚なんですよね。
この何かを埋めたいという感覚が探求のエネルギーみたいなものなんですが、
この探求のエネルギーが消えるには、
何ていうか、探求に飽きる。
そんなことが起こるんです。
全てである「それ」って、実は、もう
めーーーーっちゃくちゃ、退屈なんですよ。
なので、探求が起こってくるんです。
でも、その探求は全てである「それ」を求めてるんです。
探求が起こった時点で、「それ」が失われるので、その失われた何かを
探求は埋めたいと思うんですよね。
でも「それ」自体は退屈すぎるんです。
このジレンマがあるわけなんです。
準備ができた時。というのは、
うん。もう探求も十分やわ。
ってなった時に、この目の前の退屈さを受け入れられるんです。
そして、この退屈さを受け入れられた時に、
ド・ナ・イ・ヤ・ネン!!!!
となるんです。
探求して求めてたものは、これやったんやないかいっ!
てね。
じゃあ、準備をするにはどうしたらええねん。
って話になるんですけどね。
この探求が魅惑的な間は、探求が続くわけなんです。
でも、その探求の真理が見抜かれると、魅惑的じゃなくなってくるんです。
すると、探求が弱まってくるんです。
なので、まずは、探求が起こっていることに気づくことなんですが、
それには、ただ見ていればいいんです。
何かをしようとせずにね。
それを求めて、誰かの話を聞きに行ったり、えらい先生を崇め奉ったり、
瞑想を続けたり、癒しに打ち込んだり。
これらは、全部、夢中になっている間は、魅惑的なことです。
でも「それ」とは全く関係のないことなんです。