「ただ起こっているだけ」
この言葉はちょっと捉え方が難しいかもしれません。
無関心になりましょうという事ともちがい、それでいて起こっていることに関心を向けるという事でもないんですよね。
このただ起こっているだけをうまく表現されている禅の言葉があります。
多分、良寛さんが詠んだ詩だったかと思います。
花無心招蝶 花は無心にして蝶を招き
蝶無心尋花 蝶は無心にして花を尋ねる
花開時蝶来 花が開く時、蝶は来て
蝶来時花開 蝶が来る時、花は開く
花は蝶を招こうと咲いているのではなく、無心に、ただ咲いている。
そして、蝶も花を訪ねようという心があるわけではなく、無心に花を訪ねている。
でも、花が咲くと蝶は花を訪ねて、蝶がたずねてきたところには花がただ咲いている。
これは、
春になれば、花が咲き、
夏になればセミが鳴き、
秋になれば葉は紅葉し、
冬になれば葉が落ちる。
みたいなただ起きていること。
ここに、何の説明も概念も加えることのないさま。
それがただ、起こっているということです。
意図もなく、降るべき時に雨は降り、やむべき時に雨はやみます。
あらゆることは、意図なくただ、起こるべくして起こっていて、人だけがその起こっている事にたいして理由を求めているんです。
空想の中で原因や結果を探り、空想の中で人生を作り上げています。
どんな空想をしていようが、
風は吹くべくして、吹きますし、花は咲くべくして咲いています。
同じように、あらゆる思考は起こり、そして消えていきます。
感情も起こり、そして消えていきます。
肉体だってそうです。
心臓がトクンと動き、消えていきます。
肉体は固定されたことなんて一度もなく細胞が生まれて消えて、と
風がただ吹くのと同じように起こって、消えていきます。
ここには、何の意図もありません。
人が世界があると認識しているときだけ、起こっていることに説明が加えられています。
その説明に実体はなく、空想の中でだけ説明が加えられているんです。
その空想の中で原因と結果があると空想し、何かをして「それ」にたどり着こうとします。
何を空想していようが、「それ」はそのまんまここに在るわけです。
だから、「それ」を知ろうとすることをできる者もいないし、その方法もないし、
何かができる誰かもいないんです。
悟った誰かもいないし、解放された誰かもいません。