Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あなたの人生を支える指針とそれを手放すことについての誤解

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あなたのアイデンティティーとなる人生の指針

人は生きる上で、意識的にしろ、無意識にしろ、ある種の指針を持ちます。

それは、プライドであったり、
何かに対するこだわりであったり、
人との接し方であったり、
仕事の考え方であったり、
と多岐にわたります。

この指針を杖として、人生という道を歩こうとするわけです。

こういった指針は、
最初は
誰かに教えられたものだったり、
自分の経験によって得られた思いであったり、
自分が抱いた「こうありたい」という思いであったりと
様々なきっかけから生まれます。

そして、次第にその指針が血となり肉となり、
自分のアイデンティティーとして心の中で形作られ、
さらには、自分自身そのもののようになってくるのです。

例えば、あなたがモノづくりの仕事に携わっていたとします。
最初はその仕事について教わります。
また、その仕事はどういった目的があるのか?を叩きこまれていきます。
仕事というのは、基本的に世の中をよりよくするものですので、
この仕事を通して世の中をよりよくするのだ!という思いも培われます。
そして、その仕事を通して自分なりの考え方が成熟され、形作られていくわけです。

こうして、あなたを支える杖となり、アイデンティティーとなった指針は、あなたの頼もしい友であるわけですから、この杖が損なわれるのは、あなたにとっては一大事です。
この杖を奪われるのは、とても恐ろしい事のように感じられてくるんです。

また、このあなたの指針に真っ向から対立してくる者がいたとしたら、驚異的な敵だと感じます。

さて、モノづくりをとても大切だという指針を持っているあなたの目の前に、
モノなんて使い捨てで良い!とにかくお金を稼ぐことが大切なんだという指針を持った人があらわれたとします。
とにかく安く早く作ってくれ!
と言ってきたとしたら、あなたはムッとするわけです。
こいつは何もわかってない!
とイラつくことでしょう。

この怒りは、あなたの指針というアイデンティティーが破壊されるかもしれないという恐れから来ているんですね。

ま、この例は、一例ですが、この指針が信じている宗教であったり、スピリチュアル的な生き方であったりといろいろあるわけなんです。

また、指針は1つではなく沢山持っている人もいるでしょう。

この指針が深く沢山、自分に根付いていればいるほど、それを脅かす状況が起こる可能性も高くなります。

なので、沢山あればあるほど、生きにくくなってくるんですね。

ただ、この指針は、普段は自分でも気づかないほど自然なものになっています。
なので、この指針が脅かされる時はその指針が何なのか?に気づくチャンスともなるんです。

さて、自分の指針が損なわれるようなことが起こるとき、
人はそれを困難と捉えて、まずはこの困難からどうやって自分の指針を守ればよいか?
と考えます。
普通は指針を守ろうとは考えずに、自分自身をどうやって守ろうか?と考えるわけですね。

自分のこだわりに対して、それと反対の立場にいる人に対しては、その人と距離をとったり、付き合いをやめたり、そういった方法で守ろうとするでしょうし、
一転攻勢に出ようとするかもしれません。

ただし、一時的にはそれでうまくいくかもしれませんが、この指針が深く自分に根付いている限り、またいつ何時、それを脅かす困難が訪れるかはわからないんです。

そして、人は、こういった困難を完全に避ける方法はないだろうか?と考え、避ける方法を望みます。

ある人は、非の打ちどころのない完璧な生き方の指針があるかもしれないとそれを探し求めたりするでしょうし、
ある人は、困難に負けない自分になればよいと考える人もいるでしょう。

そういったあらゆる困難から、スピリチュアルや宗教の門を叩く人も多いと思います。

手放すことについての誤解

さて、いろんなスピリチュアルな教えでは、
手放しなさい。

と教えられています。

思いや思考、感情があなたにとっての鎖となっている。
なので、それらの思いを手放すことによってあなたは自由になるんです。

という教えです。

ここで言われている思考、感情は握りしめている人生の指針も含まれます。あらゆる思考、感情もその指針から生まれるんです。

ただ、この教えにはひとつ盲点があります。
この盲点に気づかないと、大きな誤解を生んでしまうんです。

この盲点というのは、
思考や思い、感情を消し去ろうとしてしまう事です。

ん?
なんで??
そうじゃないのん??

と思うかもしれませんね。

この思考や思いや感情をそのまま消し去ろうとしてしまう事。
このアイデアは、「自分がその思いや思考、感情を所有している」という誤解から生まれてくるアイデアです。

そして、この「自分が持っている、所有している」というところから始めると、大きなボタンの掛け違いとなってしまうんです。

手放すというのは、自分が持っている思考を捨て去るという事ではないんです。

思考や感情は、ただ、そこで起こっています。
そこに、自分という概念が付け加えられているんです。

このことに気づくことが手放すということの真の意味です。

あなたが持っていると思っていた思考や感情は、ただ、思考・感情としてそこに起こっているだけなんです。

そこに気づくことが出来ずに、ただ思考や感情を手放そう手放そうとしていても、いつまでたってもそれが出来ずに延々とそのことを繰り返すことになってしまいます。
なぜなら、その手放したい何かを持っている自分は存在しないからです。
それどころか、その手放したい何か、それ自身が自分だからなんです。

そして、さらには、手放したいという強烈な思いをもしょい込むことになってしまうんです。

なので、その感情や思考そのものを何とかしようとするのではなく、それはそのまんまにしておき、何とかしたいともがいている自分というエネルギーに気づくこと。
その思考や感情があなた自身では無い事に気づくこと。

それに気づいて、その思考や感情はそのまんまに寄り添う事。

そうなることで、
その感情、思考は手放す必要すらなく、
それはあなたがよりよくしようとした結晶として表れていたこと。
あなたがよりよくしようとしたことは、いわゆる「愛」の表現であったこと。
最初っからすべて許されていたこと。

そのことに気づくんです。

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