Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「何もしない」をやっても、「何もしてない」にはなりません

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行為者はいません。

そして、全体の中で全てがただ起こっています。

この言葉を自我意識で解釈をしちゃうと、
「私は何もできないから、流れに任せて何もしない方が良いんだな。」
と捉えられちゃったりします。
ましてや、運命は決まっているとか言われてたりするので尚更です。

でも、これって、ただ、「何もしない」をやっているにすぎません。

非二元のメッセージは、ただの描写なので、それを解釈すると、
行為者がいない中で全てがただ起こっているという風景を想像し、
そしてそういった世界観を自我意識の中で創り上げてしまったりします。

元々言葉で表現不可能なものをなんとか描写しているモノに対して、
さらに解釈をして世界観を作り上げてしまうので、
まるで劣化コピーを繰り返すような感じで、全然的外れな世界観が創り上げられてしまいます。

あなたが今、見たり聞いたり感じたり、身体に起こったりしている事。
音だったり、
光りだったり、
座った感触だったり、
呼吸だったり、
心臓の鼓動だったり、

それがただ起こっている事です。
わざわざ、「ただ」とつけるのは、
物語を起こっている事と勘違いしないための配慮であって、
誰かに起こっている事ではないということを言いたいためなんやと思います。

あえて、私がいるという表現で「それ」を描写してみるとどういう感じになるかというと、
起こっている事、石ころ、そこにあるペットボトルのふた
これらすべてはイノチそのものであり、
それがそのまま私自身であり、
私自身は完全に全てであり、同時に目の前の石ころはワタシそのものであり、その石ころは何も欠けることなく全てであり、全てと石ころの間には全くの差はなく、全ての中で起こっている自我意識もそのまま完全に私自身である。

みたいな表現になります。

正直にそのままを書いてみました。

でもやっぱり書くとなんか的が外れますね。

さて、これを解釈しようとすると、途端に矛盾しますよね?
解釈せずに、わからないままに落ち着いてみることは出来るでしょうか?

わからないままでは、なんかムズムズする。解釈したくなる。
そんなエネルギー的なものが、分離のエネルギーです。

この分離が、色と空を分けます。

色イコール空じゃなくなるんです。

この分離のエネルギーは、ばれると行き場を失います。
やべ!ばれたっ!みたいな感じです。
なので、見つけてみてください。

見つけるには、見つけようとせず、わかろうとしないことがミソになります。

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