Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

目の前の現実から逃げて「全ては完璧なのよ!」と愛を叫ぶ!

f:id:takuteto:20160218192018j:plain

おはよーございます!アクセスありがとうございます。
さて、

起こっていることは全て完璧です。
という言葉がありますよねぇ。
エロい先生とかがよく言います。僕も言ってるかもしれませんけど。

今日は、この言葉からくる誤解について書いてみよっかなーと思います。

全ては完璧だから何が起こっても大丈夫?

全ては完璧とか聞くと、完璧だから何が起こっても大丈夫なんだ!
って捉えられがちですよね。

これがよくある誤解です。

ここで既に、ある種の論理の追加がなされてしまっているんですね。

どういうことかと言いますと、

全ては完璧。

ということは、つまり、何が起こっても大丈夫なはずだ!

だから、私、今、大変ピンチだけど、
うん!完璧!完璧だわー!
大丈夫なんだわー!愛だわー!
だって、何も起こってないんだもの。
だから、何もしないわー!
オホホホホー!

みたいなね。
そんなこじらせ方をしちゃう場合があるんですよね。

何がこじれているのか?と言いますと、
全ては完璧で何が起こっても大丈夫。
という概念を、オママゴトの土俵に持ってきてしまっている。
つまり、自我の物語に持ち込み、概念化した上でさらに物語を重ねてしまっている。
ということです。

こういうこじらせ方が、自我の同一化を強化していくんですよね。

いわゆるスピ系の教えにハマっちゃうパターンです。

このこじらせの原因も自我意識のクセにあります。

自我意識は、何かを解釈し、概念化し、判断材料として取り入れようとするんです。
これは、熱いものを触ったらヤケドするぜ!
という、危険回避の本能から来ていますが、
人はなまじっか知能が高いので、ここを拡大解釈しがちなんです。
そして、そういった思考に私という概念が同一化することにより、
自我意識化し、全ての中で壁を作り自由を自らの手で、奪っているというわけです。

全ては完璧で起こることが完璧の中でただ起こっている。
という言葉は、全てである「それ」のただの描写です。
ここに解釈を加えた途端、その描写から、真実が失われます。
なぜなら、解釈は、取捨選択だからです。

なので、こういったメッセージを真に受けることは必要ないんです。
真に受けるということは、自我意識の解釈に当てはめるということなんです。
解釈をせずに、感覚的に感じられた時、元々ある「それ」に気づくきっかけになるかもしれないってだけです。
考えるな感じるんだーとかよく言われていますよね?
それって、そういう意味があってのことなんですね。
お釈迦はんが、
教えてくだせー!
教えてくだせー!
と懇願する弟子に、
自灯明となりなはれ。
と言ったとかいう話がありますが、
これも、
教えを解釈の土俵に乗せて飛躍させてしまうのではなく、
自分で感じなさい。

あらゆる光はあなたから発せられていて、見えている世界はあなた自身の光の反射なんだよ。
みたいなことが言いたかったんちゃうんか?と思います。知りませんが・・・

教えというのは、聞いた途端、自分で解釈の土俵の載せちゃったり、
自分で感じることを放棄して、ただ信じちゃったりしちゃいがちなんですよね。

自灯明はなるものではなく、元々そうなんです。
それに気づきなはれという事ですね。

さて、この記事ももちろん、真に受けて、解釈の土俵に乗せないでくださいね。

この記事は、

目の前の現実から逃げちゃダメだよ。
と言っているわけではないですよ。
好きにすりゃいいと思うんです。
逃げたきゃガンガン逃げ切ったったらええですし、立ち向かうんならそれでもいいんです。
自分の中で感じることに従えばいいんです。

何が言いたいのかというと、
私がいないとかすべては完璧とかいう「それ」の描写を、
解釈という土俵に乗っけてしまうと、
たちまち、「それ」が失われ、変な方向にどんどんと解釈が解釈を呼び、
それに同一化して、自我意識がガンガンと飛躍しまっせ!

ということです。

あー、書けば書くほどややこしくなりそうなので、今日はこの辺にしておきます。

読んでいただいてありがとうございます!よかったら、バナーをちょちょいとクリックお願いしまーす。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ